【No.091】採精室の死亡診断書 —— テクノブレイクという、妙に格好いい都市伝説

社会とジェンダー

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こんにちは、御簾納です。

先日、駅前の雑居ビルの前を通りかかったら、上の方の階の窓に、不妊治療のクリニックの看板が新しく出ていました。(前はたしか英会話教室だったような気がするのですが、よく通る道なのに、そのあたりの記憶はまったく当てになりません。)

不妊治療のクリニックといえば、以前(【No.072】)、採精室の話を書いたことがあります。飲み会の席で、たった一人の経験者が話してくれた、あの部屋の話です。看板を見上げながらそれを思い出していたら、ついこの間自分で書いたばかりの一文が、頭の中で妙な具合に隣に並んでしまいました。

前々回(【No.089】)、私は内診台のあるあの部屋のことを、たぶん世の中でいちばん気持ちよくなってはいけない場所なのだろう、と書きました。ところが、同じ産婦人科の、同じ看板の下には、まるで逆の部屋もあるわけです。気持ちよくならなければ用が済まないのに、とても気持ちよくなれそうにない状況に置かれる部屋、つまり採精室です。(そのあたりのしんどさは、あのとき書いた通りです。)

気持ちよくなってはいけない部屋と、気持ちよくならなければいけない部屋が、一つの看板の下に並んでいる。産婦人科というのは、つくづく妙なところだなと思いながら信号を待っていたのですが、私の頭はそこから、さらにどうでもいい方へと転がっていきました。あの部屋で、万が一のことが起きたらどうなるのか、という方へです。

いや、縁起でもない話だというのは分かっています。ただ、あの狭い個室では、極度の緊張とプレッシャーの中で、男が一人きりで作業をしているわけです。持病のある人もいるでしょうし、それなりの年齢の人もいるでしょう。そこで何かあったとして、お医者さんは書類に何と書くのだろう、と考えたとき、私の頭に真っ先に浮かんだのは、医学用語ではありませんでした。テクノブレイク、です。

ご存じない方のために説明しておきますと、これは「自慰行為のやりすぎで死ぬこと」を指す言葉として、一時期ネットでずいぶん広まったものです。ある年代より下の男性なら、一度くらいは耳にしたことがあるのではないでしょうか。そして耳にした瞬間、ほんの少しだけ背筋が寒くなった方も、たぶん少なくないはずです。(私はあります。)

というわけで、今回は婦人科の話ではありません。……いや、採精室は産婦人科の中にあるわけですから、禁足地の敷地内の話ではある、ということにさせてください。ずいぶん端っこの方ではありますが。

さて、先に結論から申し上げておくと、テクノブレイクという病名は存在しません。医学用語でもなければ、診断名として使われたこともない。男性向けのクリニックの先生が解説している記事を読んでも、自慰行為そのものが死因になったという例は医療の現場では報告されていない、持病のない人がやりすぎで死ぬことはまずない、と、はっきり書いてあります。(ただし、心臓などに持病のある方は、そういう最中に発作を起こすということが実際にあるので、気をつけた方がいいそうです。)ですから、書類にテクノブレイクと書かれることは、まずありません。

ついでなので、そもそもの疑問だった書類の方も、少し調べてみました。お医者さんが死因を書く書類には、国が出している記入マニュアルというものがありまして、これが思いのほか読ませるのです。

まず、私が当たり前のように思い浮かべていた「死亡診断書」ですが、あの部屋の場合は、どうやらこれにはならないらしい。その病気でずっと診てもらっていた患者さんが、その病気で亡くなったときは死亡診断書、それ以外のときは死体検案書という、別の名前の書類になるのだそうです。採精室にいる男は、少なくともその日に命を落とすような病気で通っているわけではないでしょうから、たぶん後者の方になるのでしょう。しかもこの二つは同じ一枚の用紙で、表題のところに「死亡診断書(死体検案書)」と両方が刷ってあり、要らない方を二重線で消して使うのだそうです。人が亡くなったときの書類にまで、こういう事務的な合理性が貫かれているのを知ると、なんだか妙に感心してしまいます。

それからもう一つ、死因の欄には、病気の終末期の状態としての「心不全」や「呼吸不全」は書かないように、とわざわざ断ってありました。人は最後には誰でも心臓が止まるわけですから、それを死因と書かれても統計の役に立たない、ということなのでしょう。

さて、では、テクノブレイクという言葉の方は、どこから来たのか。調べてみると、元になったのは、匿名掲示板に貼られた一本のニュース記事風の書き込みのようです。宮城県の男子高校生が自分の部屋で死亡しているのが見つかった、という体裁で、宮城県立病院の診断によれば、精巣内から過度の精子が分泌され、脳波が興奮状態に陥ったときに心肺が停止した、と、いかにもそれらしい文面が続きます。

面白いのは、この書き込みの作り込みです。解剖の結果まで付いているうえに、統計まである。1997年には12歳から16歳の少年の「全体の0.01%」だったものが、年に3倍以上のペースで増え続け、本年はついに0.3%に達した、と。(何の全体なのかは、最後まで分かりません。)東京23区だけで年間二、三十例、全国では二、三百例と推測される、という念の入れようで、ご丁寧に、アメリカの議会ではポルノ規制を強める動きがある、という一文まで添えられています。架空の病気に、架空の時系列データと、ついでのような国際情勢まで付いているわけですね。

ちなみにこの書き込み、出回っているうちに細かいところがちょこちょこ変わっていったようで、版によって文面にかなりの揺れがあります。中でも、婦人科のブログを書いている人間として、どうしても素通りできなかったのが、精子の出どころです。ある版では「精巣内から」になっているのですが、別の版では、これがなんと「膣内から」になっている。言うまでもなく、そこから精子は分泌されません。どちらが先だったのかは分かりませんが、誰かが読んで「いや、そこはおかしいだろう」と直したのか、それとも誰かが写し間違えたのか、とにかく男の都市伝説が、版によっては一行だけ、禁足地に迷い込んでいたわけです。(冒頭で、敷地内の話ということにさせてください、と書いたのは、半分くらいはこの一行のせいです。)もし前者だとしたら、釣りの文章が、読んだ人たちの手で少しずつ推敲されて、もっともらしくなっていったということになるわけで、それはそれで、なかなか味わい深い話だと思います。

いつ頃生まれたのかについても、実ははっきりしません。広まるきっかけになったのは、2010年の9月に掲示板に立ったスレッドらしいのですが、書き込みの中の日付は2007年になっていますし、さらに元をたどると、風俗系のサイトに載った嘘のニュース記事だった、という話まで出てきます。要するに、よく分からないのですが、それでもこの話は、十年以上にわたって、ネットの片隅でしぶとく生き延びてきたわけです。

以前(【No.082】)、内診の「グリグリ」に都市伝説というタイトルを付けたものの、調べてみたら医師がちゃんと意図してやっている処置の名前で、本家の皆さんに叱られそうになって引っ込めた、ということがありました。その点、こちらは、どこをどう調べても正真正銘の都市伝説です。今回は誰にも叱られずに済みそうで、少しほっとしています。

さて、ここで最初の話に戻りたいのですが、仮にテクノブレイクが本当にあったとして、です。お葬式で、親戚のおばさんに「それで、死因は何だったの」と聞かれたら、遺族は何と答えるのでしょうか。

心不全、と言っておくのが一番無難なのでしょうね。先ほどのマニュアルによれば、最期の状態としての心不全とだけ書くのは控えるように、ということでしたが、それは書類の上の話で、親戚のおばさんに答える分には、誰にも二重線で消されたりはしません。事故死、というのは少々苦しい。何の事故なのか、と聞かれたら困りますから。

では、正直に「テクノブレイクです」と答えたらどうなるかというと、これが、妙に格好いいのです。テクノ、ブレイク。どこか未来的で、なんだか最先端の現象に巻き込まれて殉職したような響きがあります。(実態はそうではないのですが。)親戚のおばさんも、何のことか分からないまま、「そう、テクノブレイク……」と神妙な顔でうなずいてくれそうな気がします。

この名前の付け方は、意外と大事だったのではないかと思っています。もしこれが「自慰過多死」のような漢字の名前だったら、ここまで広まることはなかったでしょう。怖いのに、どこか格好いいという、その半端さが、人から人へと話を運ばせたのではないかという気がします。

もっとも、テクノブレイクという言葉がそもそも何語なのか、というところで、私はまた一つ引っかかってしまったのですが、英語っぽい響きのこの言葉を本気で調べ始めると、どこまで連れて行かれるか分かったものではないので、今日のところはやめておきます。

駅前のあの看板の前を通るたびに、これからはたぶん、また余計なことを考えてしまうのだろうと思います。

それではまた、次のふとした違和感の前で、お会いしましょう。

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