【No.072】沈黙のシェルター —— 採精室という孤独な戦場

空間と装置

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本ブログは、医療空間における権力構造や、そこに生じる心理的な嫌悪感・ざわつき等を分析・考察するものです。特定の医療機関や従事者を非難・攻撃するつもりはありませんが、記事の性質上、医療現場の生々しい実態や直接的な表現が含まれる場合があります。ご自身の心身の状況に合わせて、無理のない範囲で閲覧をご判断ください。詳しくはサイトポリシーをご一読ください。

こんにちは、御簾納です。

少し前に、婦人科の待合室にいる「付き添いの彼氏や夫」の話を書きましたが、今回はさらに踏み込んで、不妊治療クリニックにおいて最も「語りづらく」、かつ「デザインの意図が迷走しがち」な空間についてのメモです。採精室、いわゆるメンズルームについて考えてみましょう。

以前、飲みの席でこの話題になったことがありました。正確には、不妊治療の経験があるのが一人だけいて、その男が採精室の話を始めたのです。あとは全員、経験のない人間でした。

ところが、経験のない側が面白がって次々に質問を浴びせるものですから、話はどんどん盛り上がっていきました。

中でも受けたのが、備え付けのアダルトビデオのラインナップです。とにかく守備範囲が広いというのです。人妻ものからかなりマニアックなジャンルまで、ひと通り揃っている。「それ、誰が選んでるんだ」と誰かが言い出して、その場が笑いに包まれました。

たしかに、誰かが選んでいるはずなのです。院長でしょうか。事務長でしょうか。あるいは業者にまとめて発注しているのか。いずれにせよ、どこかの段階で誰かが「このジャンルも入れておこう」と判断しているわけで、そう考えるとなかなか味わい深いものがあります。(余談ですが、こういうことを真顔で考え始めるあたりが、私が飲み会で敬遠される理由なのだろうとは思っています。)

ただ、その笑い声を聞きながら、私は少し別のことも考えていました。話していた本人は、なぜ最初から笑い話として話したのだろう、と。

彼は一度も「しんどかった」とは言いませんでした。うまくいかなかった日のことも、失敗談として明るく処理していました。もし彼が真顔で「あれは本当に応えた」と言い出していたら、あの場の空気は完全に変わっていたはずです。

そして、それを許さなかったのは、たぶん我々の側です。経験のない人間が面白がって質問を浴びせているのですから、答える側は笑い話にするしかありません。

婦人科という空間は、徹底的に「女性の聖域」として設計されています。そんな完全なアウェー空間に、男性は一人、放り込まれます。待合室に座る女性たちの視線を背中に浴びながら、「採精室」という札が掛かった扉をくぐる。そこから先は、極度の緊張とプレッシャーの下で、自らの性的な興奮をコントロールし、生理現象を完遂させなければならないという、非常に孤独で繊細な作業が課されます。

医療スタッフがすぐ外を歩き、物音が響くかもしれない不安定な密室で、プライバシーを剥き出しにする。しかもここで思うようにいかなかった場合、失われるのは時間や検査の機会だけではありません。男としてのパワーそのものが、目に見える形で不足していると証明されてしまう。

彼が笑い話という形でしか話せなかったのは、そこだったのだろうと思います。

とはいえ、私自身は当事者として採精室に入ったことがありません。ですから、ここから先はあくまで想像になります。

ただ、一つだけ、これがいくらか近いのではないかと思っている経験があります。健康診断などで、尿検査の紙コップを渡されるときのことです。

トイレに行って、用を足して、中の棚に置いておいてください、と言われる。あの棚は、こちら側からも向こう側からも開けられるようになっていますから、おそらく反対側には検査室があって、誰かが受け取るのでしょう。

これが、妙に恥ずかしいのです。

考えてみると不思議な話で、普段の男子便所には仕切りらしい仕切りもなく、隣に人が立っていようが何とも思いません。プライバシーなど欠片もない空間です。それなのに、個室に一人きりで、鍵までかかっているあの場面の方が、はるかに落ち着かない。

違いは、たぶんプライバシーではないのだろうと思います。小便器の場合、出したものはそのまま流れていって、誰の目にも触れません。ところが紙コップの方は、出したものが棚の向こうへ渡っていって、誰かがそれを見る。しかも、良いとか悪いとか判定される。

見られて困るのは自分ではなく、自分から出たものの方だったわけです。

そう考えると、採精室で男たちが感じているものも、方向としては同じなのかもしれません。ただしあちらは、渡すものの中身が中身ですし、判定の結果が男としてのパワーに直結してしまいます。恥ずかしさの桁が違うだろうな、とは思います。

さて、私はごくたまに、知人の紹介という形で、医療施設の空間についてご相談をいただくことがあります。学者として名が知れているという話ではまったくなく、単に「そういう変わったことを研究している知り合いがいる」という程度の紹介です。それでも一応、意見を求められれば考えるわけです。

そこで一つ申し上げたいのは、よく見かける「ビジネスホテルのような豪華な内装」は、たぶん的外れだろうということです。無機質な病院の中に突如としてホテルのような部屋が現れると、かえってそこで行われることの生々しさが強調されてしまう。落ち着かせるつもりが、逆に落ち着かなくさせているのではないでしょうか。

本当に必要なのは、装飾ではなく「絶対的なシェルター(隠れ家)」としての機能だと思います。

徹底した「音」の遮断により、物理的に世界から切り離されているという確信を与えること。これが何よりも優先されるはずです。そして、自己完結できる機能動線。採精後の容器を提出する小窓、素早く身なりを整えられる洗面台。「何事もなかったかのように、清潔な自分に戻って外に出られる」という保証こそが、男性のプライドを守るための正解なのだろうと考えています。

先ほどの紙コップの話で言えば、あの棚が向こう側から開くことを知らずに済むなら、そのほうがずっといい、ということです。

女性の痛みに寄り添うクリニックであればこそ、その陰で静かにプレッシャーと戦う男性たちのための、無機質で清潔な「沈黙のシェルター」がきちんと設計されるべきだと感じます。

もっとも、あの日の飲み会でこんな話をしたら、間違いなく空気が凍っていたでしょう。彼らが求めていたのは、ビデオのラインナップに突っ込みを入れて笑うことであって、空間設計の話ではありません。

ですから私はあの場では黙っていて、こうして後からブログに書いているわけです。我ながら、まったく可愛げのない話だと思います。

それでは、また気が向いた時に。

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