メディアと表象

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【No.037】ポルノが直視できなかった密室――私の研究の原点と「リアル」の限界

こんにちは、御簾納です。今回は、私がなぜ「婦人科という空間」にこれほどまでに執着し、自費で研究を重ねてこのブログを開設するに至ったのか。その「原点」とも言えるあるエピソードについてお話ししたいと思います。かつて私は、空間の使われ方や視線の構...
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【No.025】消えたドキュメンタリーと失われた機会――メディアの事勿れ主義がもたらしたもの

こんにちは、御簾納です。前回は映画『ロマンスX』を引き合いに、隠蔽や美化を排した内診室の現実について考察しました。今回はひるがえって、日本のメディア(特にテレビのドキュメンタリー)がこの空間とどう向き合ってきたかについて、少し時代を遡って振...
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【No.024】物質としての肉体と孤立――『ロマンスX』が描いた内診の冷徹さ

こんにちは、御簾納です。前回、西洋映画における「まなざしの倫理」について触れましたが、映像史にはもう一つ、全く別のアプローチで女性の身体の真実に迫ろうとした極めて重要な作品があります。カトリーヌ・ブレイヤ監督の1999年の映画『ロマンスX』...
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【No.023】まなざしの倫理――西洋映画が提示する「隠蔽」と「露出」の先にあるもの

こんにちは、御簾納です。ここ数回にわたり、メディアが女性の身体と診察室をどう扱ってきたかについて考察してきました。現代の日本のテレビドラマは臭い物に蓋をするように「綺麗に隠蔽」し、一昔前の映像作品は「権力とエロスの装置として搾取」し、最近の...
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【No.022】メディアにおける身体の境界線(後編)――無修正の現実と、「綺麗な蝶」という暴力

こんにちは、御簾納です。前回はドイツのコメディ番組を例に、西洋のフラットな身体表現について語りました。今回はその「ありのままを映す」というアプローチが極端な形で現れている、現代のネットメディアの事例を取り上げます。YouTubeなどの動画プ...
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【No.021】メディアにおける身体の境界線(前編)――ドイツのお茶の間に流れた「無修正の日常」

こんにちは、御簾納です。前回は日本と欧米の実際の「診察室の設備」について比較しましたが、今回は視点をメディアに戻し、「欧米の映像作品において、人間の身体の生々しい現実がどう扱われているか」について考えてみたいと思います。少し個人的な思い出に...
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【No.018】隠す現代のテレビと、搾取したかつての映像の間で――失われた「中立的な身体」

こんにちは、御簾納です。ここまで2回にわたり、メディアが内診室という空間をどう描いてきたかを考察しました。現代のテレビドラマはそれを「美しく漂白して隠蔽」し、コンプライアンスが緩かった過去の映像作品群はそれを「権力とエロティシズムの装置とし...
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【No.017】かつての映像作品に見る「まなざしの搾取」――権力装置としての内診台

こんにちは、御簾納です。前回は、現代のテレビドラマがいかに産婦人科の密室を「綺麗に漂白」しているかについて語りました。しかし、今回は少し視点を変えます。表現の制約が現在よりもずっと緩やかだった、一昔前の映像作品に目を向けると、この空間の描か...
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【No.016】ドラマが描かない「パステルカラーの椅子」――テレビはいかにして密室を漂白したか

こんにちは、御簾納です。熊田曜子氏の事例を通じて、現実の女性が「実際の診察風景」を公開した際の社会の拒絶反応について考えました。では、社会を映す鏡であるはずの「メディア」は、普段この空間をどのように描いているのでしょうか。例えば、プライムタ...
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【No.010】「私は神だ」――映画『冷たい月を抱く女』に見る、医療パターナリズムの極致

こんにちは、御簾納です。今回は、少し息抜きも兼ねて、私の趣味である映画の話をさせてください。以前、クローネンバーグ監督の『戦慄の絆』を取り上げましたが、今日も90年代の医療サスペンスから、ある強烈なテーマを持った作品をご紹介したいと思います...