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本ブログは、医療空間における権力構造や、そこに生じる心理的な嫌悪感・ざわつき等を分析・考察するものです。特定の医療機関や従事者を非難・攻撃するつもりはありませんが、記事の性質上、医療現場の生々しい実態や直接的な表現が含まれる場合があります。ご自身の心身の状況に合わせて、無理のない範囲で閲覧をご判断ください。詳しくはサイトポリシーをご一読ください。
こんにちは、御簾納です。
今回は、少し息抜きも兼ねて、私の趣味である映画の話をさせてください。以前、クローネンバーグ監督の『戦慄の絆』を取り上げましたが、今日も90年代の医療サスペンスから、ある強烈なテーマを持った作品をご紹介したいと思います。
1993年に公開されたハロルド・ベッカー監督の映画『冷たい月を抱く女』(原題:Malice)です。ニコール・キッドマンやビル・プルマンが出演するサスペンスの秀作ですが、私が今回着目したいのは、アレック・ボールドウィン演じる天才外科医、ジェッド・ヒルの存在です。
彼は、腕は間違いなく超一流ですが、自信過剰で傲慢な医師として描かれます。劇中、彼はある女性患者(ニコール・キッドマン)の緊急手術において、彼女の卵巣に壊死の疑いがあると判断し、事前の十分な合意がないまま独断で両方の卵巣を摘出してしまうという重大な決断を下します。
その後、その医療行為の妥当性を問うための宣誓供述(デポジション)の場が設けられます。弁護士から「あなたは自分を神だと勘違いしているのではないか?(God complex)」と厳しく追及された際、ジェッドは少しも悪びれることなく、映画史に残る有名な演説を放ちます。
「患者が手術室に運ばれてきた時、彼らは『ただの良い人』に手術してほしいと願うか? 違う。彼らは神を求めているんだ。(中略)私が神だ(I am God.)」
このセリフは、サスペンス映画の悪役の狂気として描かれていますが、私はここに、近代医療が構造的に抱え込んでしまった「パターナリズム(父権主義)」の最も極端で、しかし極めてリアルな姿を見てしまいます。
パターナリズムとは、「専門家である医師が、無知な患者に代わって最善の決定を下してやる」という、庇護と支配が表裏一体となった考え方です。
「私が神だ」というジェッドの言葉の裏にあるのは、「患者の身体は、患者自身のものではなく、治療を施す私の統治下にある」という絶対的な特権意識です。そこでは、患者の「同意」や「納得」といった人間的なプロセスは、医療という崇高な目的の前では取るに足らないノイズとして切り捨てられてしまいます。
もちろん、現実の医療現場でここまで傲慢な言葉を口にする医師はいないでしょう。しかし、この「ジェッド・ヒル的なまなざし」――すなわち、患者を対等な人間としてではなく、修理すべき無機質な機械として見下ろす視線は、システムの中に形を変えて潜んでいるのではないでしょうか。
婦人科の診察室で、事前説明もそこそこに内診台へ促されること。患者が恐怖でフリーズしている沈黙を、都合よく「同意」と見なして処置を進めること。これらもまた、程度の差こそあれ「専門家である私が正しいのだから、黙って任せなさい」という微細なパターナリズムの表れと言えます。
患者が麻酔で眠っている時、あるいは、内診台の上でカーテンによって視界を奪われ、完全に無力化されている時。もしその向こう側にいる医師が、ほんの少しでも「患者の尊厳よりも、自分の医療的判断(あるいは教育的関心)が優先されるべきだ」という特権意識を持っていたとしたら、患者の心はどれほど深く傷つくでしょうか。
医療には当然、高度な専門技術が必要です。しかし、その技術が「患者という一人の人間の尊厳」への敬意を失い、独善的な権力にすり替わってしまった時、それは暴力へと変貌します。
映画の中の「私は神だ」という冷酷な宣言は、医療における権力の非対称性がいかに恐ろしいものになり得るかを、私たちに強烈に突きつけているのです。


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