【閲覧に関するご案内】
本ブログは、医療空間における権力構造や、そこに生じる心理的な嫌悪感・ざわつき等を分析・考察するものです。特定の医療機関や従事者を非難・攻撃するつもりはありませんが、記事の性質上、医療現場の生々しい実態や直接的な表現が含まれる場合があります。ご自身の心身の状況に合わせて、無理のない範囲で閲覧をご判断ください。詳しくはサイトポリシーをご一読ください。
こんにちは、御簾納です。
トリビアばかり続くのも味気ないので、今回は久しぶりに私の大好きな「映画」を題材にしてみようと思います。
かつてこのブログでは、クローネンバーグ監督の『戦慄の絆』を、婦人科の狂気を描いた最高峰として何度も取り上げてきました。
実はこの作品、企画段階ではあのロバート・デ・ニーロに双子の産婦人科医役のオファーが出されていました。しかし彼は「産婦人科医を演じるのはちょっと……」と強い難色を示し、出演を辞退したという有名な裏話があります(その後、ウィリアム・ハートらの検討を経てジェレミー・アイアンズに決定しました)。
ハリウッドを代表する名優ですら、産婦人科医として女性の股間に向き合う演技には、強い忌避感(タブー感)を抱いていたのです。
また、この映画で双子の医師を破滅へと導くヒロインの女優クレア役には、当初『スーパーマン』のロイス・レイン役などで知られるマーゴット・キダーのキャスティングが真剣に検討されていました。
結果的にクレアを演じたのはジュヌヴィエーヴ・ビジョルドでしたが、彼女の持つ知的で気高く、どこか繊細で壊れそうな佇まいは、診察台で無防備に肉体を開示する際の「社会的な顔との圧倒的な落差」を完璧に引き出し、双子の医師が狂気へと引きずり込まれる説得力を生んでいました。彼女だったからこそ、あの映画の冷徹な良さが成立したのだと確信しています。
しかし一方で、マーゴット・キダーが持つ、エキセントリックで生々しいエネルギーと肉感的な危うさも魅力的です。もし彼女が演じていたら、密室の権力関係はさらにドロドロとした別の狂気を帯びていたはずで、映画オタクとしては「マーゴット版のクレアもぜひ見てみたかった」と妄想せずにはいられません。
さて、話を空間のタブーに戻します。演じる側の忌避感は「男性(医師役)」だけではありません。今回は、同じくクローネンバーグの代表作であるSFホラー『『ザ・フライ(The Fly)』(1986年)における「女性(患者役)」の裏話について語らせてください。
一見するとハエ男の恐怖を描いたSF映画で、産婦人科とは無関係に思えます。しかし、物語の終盤、ハエの遺伝子が混ざった子供を身ごもってしまったヒロイン(ジーナ・デイビス)が、絶望の中で中絶手術を受けようとする、非常に重苦しい産婦人科のシーンが登場するんです。
実はこのシーン、手術を担当しているマスク姿の産婦人科医は、クローネンバーグ監督本人なんですよね。
ヒッチコックのように監督が「出たがり」でカメオ出演したわけではありません。後年の述懐によれば、このシーンを撮影する際、当時まだ若手女優だったジーナ・デイビスが「見ず知らずの男(エキストラの俳優)を、自分の脚の間に入れるのだけは絶対に嫌だ」と泣いて強硬に拒否したからだそうです。
説得を重ねた結果、「監督自身が医者役をやるなら……」という妥協案に着地し、急遽監督が白衣を着て内診台の前に立つことになったという裏話があります。
欧米はデリケートゾーンの話題にオープンだと言われますが、「言葉がオープンであること」と「他人に脚の間を見られることの恐怖」は全く別の次元にあります。
ましてや映画の撮影現場には、照明、カメラ、音声など、大勢のスタッフ(大半が男性)が取り囲んでいます。実際の病院であれば「これは医療行為である」という大義名分(シールド)が羞恥心を守ってくれますが、映画のセットではその建前が通用しません。
いくらお芝居とはいえ、大勢の視線に晒されながら診察台の上で脚を開き、見ず知らずの俳優を股の間に立たせるという行為は、若い彼女にとって「精神的なレイプ」にも等しい圧倒的な恐怖と羞恥だったはずです。信頼関係のある「監督」でなければ耐えられないという彼女の生々しい抵抗は、内診台という空間が持つ暴力性を如実に物語っていますよね。
さて、そんな内診台のシーンで震えていたジーナ・デイビスですが、彼女は後年、再びスクリーンの中で産婦人科の診察台に乗ることになります。
『愛に気づけば…(原題:Angie)』(1994年)という映画です。自立した女性の妊娠と出産を描いたこの作品で、彼女は産婦人科の診察台に乗り、長回しのシーンで堂々と脚を開いてエコーや診察を受けています。
『ザ・フライ』から8年。ハリウッドのトップスターへと上り詰めた彼女の心境には、劇的な変化があったはずです。『愛に気づけば…』という作品が「女性の自立と母性」を肯定的に描くテーマだったからこそ、彼女は「まな板の上の鯉」として消費されるのではなく、自らの意思で診察台の上という空間を支配することができたのでしょう。
オープンだと言われる欧米であっても、名優が医師役を拒絶し、女優が診察台に乗ることを泣いて嫌がる。これは、婦人科という密室が、男女双方にとってどれほど重く、生々しいタブーとして認識されているかの何よりの証明です。
内診台(診察台)という小道具は、ただのセットではありません。それに乗る女優が、自分の肉体や羞恥心をどう乗り越え、どう世界と対峙しているかという「精神の変容」を、恐ろしいほど残酷に、そして美しく映し出す鏡のような空間でもあるのです。
それではまた、次のふとした違和感の前で、お会いしましょう。


コメント