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こんにちは、御簾納です。前回の続きです。
原作を読み返したついでに、映像化された『白い巨塔』も見比べてみることにしました。調べてみると、日本だけでも映画が一本、テレビドラマが五本あります。さすがに全部は無理なので、手の届くところにあった三本に絞りました。(名作と名高い1978年のドラマ版は、配信が見つからず、泣く泣く断念しています。)
結果として、週末がまるまる消えました。
まずは1966年の映画版です。主演は田宮二郎、又一を演じるのは石山健二郎。原作の連載とほぼ同じ頃に撮られた、二時間半の大作です。
前回、昭和の開業産婦人科には待合室からあふれるほど患者が詰めかけていた、と書きましたが、又一の医院の待合室がまさにそれでした。狭いところに患者がぎっしりとひしめき合っていて、お世辞にも環境がいいとは言えない。いかにも昭和の町医者という風景です。
そして問題の場面は、五郎が教授選に勝った、その祝勝会でやってきます。
浪速大学の教授連中が集まって酒を酌み交わすなか、すっかり酔っ払って踊り出した又一が、こう言い放つのです。
「女の患者の溝ざらえして、せっせと金貯めた甲斐おました」
一同、大爆笑。
前回、原作の溝浚えにぎょっとした、と書きましたが、映画はぎょっとするどころの話ではありませんでした。隠すどころか、宴会の余興です。
しかも、笑っているのは浪速大学の教授たちです。五郎を教授の椅子に押し上げた側の人たちが、その金の出どころを聞かされて、腹を抱えて笑っている。白い巨塔のど真ん中で、溝浚えは酒の肴になっていたわけです。
次に、2003年の唐沢寿明版。又一は西田敏行です。
こちらは、まず医院の名前からして違います。「財前マタニティクリニック」。大理石調の内装で、いかにも高級そうな雰囲気が演出されていて、又一は生まれたばかりの赤ん坊を抱っこしています。中絶を連想させる場面は、私が見た限り、ひとつも出てきません。
「産婦人科医院」から「マタニティクリニック」へ。名前ひとつで、ずいぶん印象が変わるものです。マタニティと言われると、私などは、お腹の大きな妊婦さんと柔らかい色のベビー服くらいしか思い浮かびません。溝の気配は、どこにもない。ちょうど2000年代は、産院がホテルのような個室やお祝いのディナーで選ばれるようになっていった時期ですから、ドラマの医院も、そういう時代の空気をそのまま映しているのでしょう。
ところが、です。第1話に、こんな場面があります。
五郎が大物政治家の難しい手術を成功させて、次の教授は財前だと、まわりが噂し始めた頃。本人もまんざらではないのですが、教授選というものがどれほど汚いものか、まだよく分かっていない。又一はそれを見透かしたように、教授になろうという人間はそれなりのものを身につけておかなあかん、とばかりに、高級ライターをテーブルの上に滑らせて、ぶっきらぼうに五郎のほうへ放ってよこします。そのときの台詞が、これです。
「所詮は女の股覗いて稼いだもんや。わしは財前五郎ちゅう株に投資して、名誉買おうとしてるんや」
映画では宴会の大爆笑だった話が、ここでは婿ひとりに向けた、「所詮は」という自嘲になっています。金ならいくらでも稼いだ。けれど名誉だけは、とうとう自分のものにならなかった。そういう男が、自分の果たせなかったものを婿に託す場面です。名誉を託すにしては、ずいぶんぶっきらぼうな渡し方ですが、その品物が高級ライターというのも、医院を大理石調に飾るのと同じで、要するに体裁なのでしょう。(教授を目指すなら、まずはライターから、という順番が正しいのかどうか、私にはよく分かりませんが。)
それから、もう一つ。この台詞を聞いて、私は【No.085】で書いた同級生のことを思い出しました。産婦人科医の息子だった彼が、子どもの頃に浴びせられた「マンコを覗いた金で食う飯は美味いか?」という悪口です。
ほとんど同じ文なのです。からかう側が投げつけていた言葉を、ドラマの中では、産婦人科医本人が自分に向けて口にしている。
最後に、2019年の岡田准一版。又一は小林薫で、時代設定も放送された2019年に置き換えられています。
こちらの又一も、金にものを言わせる人物であることに変わりはありません。ただ、出てくるのはほとんど料亭での作戦会議ばかりで、肝心の産婦人科医院が、ほぼ出てこないのです。わずかに映るクリニックも、とくに産婦人科らしい場面ではなく、内装も唐沢版ほど豪華ではありません。
印象に残っているのは、待合室を子どもたちが元気に走り回っていたことくらいです。上の子を連れて健診に来るのが当たり前になった、今どきの産院の風景なのでしょう。
原作では、ガラス戸の向こうから女性たちの声が聞こえていました。映画では、狭い待合室に患者がひしめき合っていました。それが2019年には、子どもたちが走り回る待合室になっている。そして溝浚えは、笑われもせず、自嘲もされず、画面のどこにもいなくなりました。残っているのは、料亭で動く金の話だけです。
宴会の大爆笑が、婿ひとりに向けた自嘲になり、最後は誰も口にしなくなる。三本を並べてみると、溝浚えはどうやら、そういう順番で画面から退いていったようです。
泥がきれいに洗い流されたのなら、それはそれで結構な話です。ただ、どうも洗われたというより、画面の外へ流し出されただけのような気がしてなりません。金の流れだけは、料亭でちゃんと続いているわけですからね。
それにしても、週末を三本の『白い巨塔』に費やして、いちばん記憶に残ったのが、踊る又一と、ライターと、走り回る子どもたちだというのは、研究者としていかがなものかと、我ながら思わなくもないのですが。
それではまた、次のふとした違和感の前で、お会いしましょう。


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