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本ブログは、医療空間における権力構造や、そこに生じる心理的な嫌悪感・ざわつき等を分析・考察するものです。特定の医療機関や従事者を非難・攻撃するつもりはありませんが、記事の性質上、医療現場の生々しい実態や直接的な表現が含まれる場合があります。ご自身の心身の状況に合わせて、無理のない範囲で閲覧をご判断ください。詳しくはサイトポリシーをご一読ください。
こんにちは、御簾納です。
今回は、日本の医療ドラマ・小説の最高峰である山崎豊子さんの『白い巨塔』について、ふと読み返して感じた違和感(というより衝撃)について語ってみようと思います。
『白い巨塔』といえば、大学病院の第一外科教授の座を巡る男たちの熾烈な権力闘争や、重苦しい医療裁判が有名です。舞台はどこまでも、男たちの「ハク(権威)」が支配するアカデミズムの象徴です。
しかし、原作小説の終盤、誤診裁判の泥沼の中で精神的に追い詰められていく財前五郎が、義父である又一が経営する「財前産婦人科」に立ち寄るシーンにおいて、非常にどぎつい産婦人科の描写が突如として現れます。
ガラス戸の向こうから聞こえてくる、患者の女性たちの「嬌声とも泣き声ともつかぬ声」。作中で財前はそれを、内診台の上で両股を広げて下半身を曝し、異物を差し込まれ、膣内を洗浄されている患者たちの露わな肢体として脳内に想像します。
そして、主院長である又一が「溝浚え(どぶさらえ)でもするかのような無造作さ」で、女の性器を次々に診察している姿を思い浮かべるのです。
さらに、戻ってきた又一自身が、悪びれもせずこう言い放ちます。
「待たせたな、今日はちょっと、手間のかかる溝浚えがあってな」
——溝浚え。
現代の感覚からすれば、確実に一発で炎上する、身も蓋もない凄まじいパワーワードです。これは言うまでもなく、当時、財前産婦人科の莫大な裏金(資金源)となっていた「人工妊娠中絶」を指しています。
ここで私が何よりも震撼したのは、このあまりにもガサツで暴力的な表現を、他ならぬ「女性作家」である山崎豊子が書いているという事実です。
なぜ彼女は、女性の身体や性を、ここまで徹底して「無機質な泥仕事」のように突き放して描いたのでしょうか。
これこそが、昭和30〜40年代当時の、産婦人科ビジネスが内包していた「グロテスクな世相」のリアルな告発だったのだと私は確信しています。
当時の開業産婦人科は、戦後のベビーブームと中絶の合法化(優生保護法)の波に乗り、まさに「座っているだけで現金が唸る」ほどの暴利を貪っていました。そこには、現代のような「女性の心に寄り添う医療」といった洗練された倫理観などまだ定着しておらず、文字通り、ベルトコンベヤー式に運ばれてくる女性の肉体を、ひたすらに「処理」していく土木工事のような無神経さがまかり通っていた。
山崎豊子は、女性の視点からその不条理を美化することなく、むしろ男たち(又一や財前)の視線を借りる形で、「お前たちが誇るその白い巨塔の戦費(裏金)は、女性の身体を『ドブ』のように扱い、無造作に浚って稼いだ金で成り立っているのだ」という不都合な真実を、これ以上ない冷酷さで暴いてみせたのです。
大学病院の最高権威という、高尚で清潔な「男たちの塔」。
しかしその土台には、内診台の上で下半身を曝された女性たちの声なき屈辱と、それを「溝浚え」と言い放つ拝金主義が、ドロドロとした泥水のように流れている。時代が流れても、この小説が突きつける「空間と金と性の二重構造」の衝撃は、今なお色褪せることがありません。
それではまた、次のふとした違和感の前で、お会いしましょう。


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