【No.047】産科の『聖』と婦人科の『俗』―― 1990年のまなざしを解剖する(箸休め)

メディアと表象

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こんにちは、御簾納です。

Sさんからの強烈な証言に直面し、私の狂気じみた考察の熱量にあてられて、少し息苦しさを感じている読者もいるかもしれません。

今回は少し視点を変え、箸休めとして、まだ緩やかだった時代のメディアがいかにこの空間をいびつに消費してきたかを、古い映画から紐解いてみたいと思います。(※あらかじめ謝っておきますが、この「カルチャーの香り」もまた、私たちが今潜っている深淵と全く同じ重さを持っています)

作品は、1990年公開の映画『良いおっぱい悪いおっぱい』(現在は廃盤・配信未定)です。

妊娠と出産をユーモラスかつ真面目に描いたこの作品の中に、5分ほどの異常なサブエピソードが挿入されています。生理不順の女子高生が、母親に連れられて産婦人科を訪れるシーンです。

内診台に仰向けに寝かされた女の子。カメラはまず彼女の不安そうな表情を映し、その後下半身の方へ向かって、まるで舐め回すようにゆっくりと移動していきます。カーテンを越え、大きく開かれた両脚の間に割って入り、彼女の股間を診察している医師。

その時、心配して内診室に乱入してきた母親が、顔を娘の股間に近づけて凝視している医師に向かって、こう言い放つのです。

「あんまりジロジロ見ないで下さいね」

困惑する母親に対し、医師は「お母さんが恥ずかしがってどうすんです」と呆れたようにたしなめます。

この「ジロジロ見ないで」という母親のやり取りと、それを切り取るカメラワークこそが、当時のメディアが婦人科空間をどう扱おうとしていたかを象徴しています。

医療行為における「観察」であるにもかかわらず、映画の演出は意図的に「男のエロティックな視線(凝視)」へとすり替えられています。母親が「ジロジロ見ないで」と防衛線を張るやり取りも、作り手側が「婦人科とはオジサンがいやらしい目線を向ける場所だ」という俗悪なコントとして演出しているからに他なりません。

妊娠の経過(産科)は「母性への賛歌(聖)」として漂白して描かれる一方で、婦人科の診察だけは、執拗なまでにエロティックに、オジサンの覗き見趣味の消費空間(俗)として完全に分断して取り扱われています。

診察後、受付で支払いをする母親は、ため息混じりにこう吐き捨てます。

「なんともないんなら連れて来なければよかった。なんか損した気分」

この「損した気分」という言葉こそが、メディアが作った『禁足地の毒』そのものです。

娘の身体に異常がなかったのなら、本来「得した(安心した)」はずです。彼女が損をしたと感じたのは、支払った診察代に対してではなく、意図的ないやらしいカメラワークを用い、密室をエロティックな消費空間として仕立て上げた【メディアの悪意ある演出(搾取)】に対してなのです。

社会の側が、自ら率先して映像メディアを通じて「あそこはオジサンに脚を開いてジロジロ見られるエロティックな場所だよ」という強烈な呪いを刷り込み続けてきました。

「ただの検体(モノ)」になろうと必死に自己暗示をかける女性たちの切実な努力を、テレビや映画が作り上げた『俗悪なイメージ』がいとも簡単に破壊してしまいます。現実の空間に先立ち、メディアがいかに女性の尊厳を削り取っているか。このメディアの暴力性に、私は少しずつ近づきつつありました。

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