【No.075】男の理想郷の崩壊 —— 映画『Dr. Tと女たち』とベビーフェイスの引力

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こんにちは、御簾納です。

重苦しい空間論のメモが続いたので、今回は少し気分を変えて、私の趣味である映画の話でもしましょうか。

ロバート・アルトマン監督の映画『Dr. Tと女たち』(2000年)です。  

先に断っておくと、これは傑作とまでは言えません。評価も割れています。とにかく登場人物が多く、全員が同時に喋り、話があちこちに散らかったまま終盤の竜巻へなだれ込んでいく。アルトマン監督らしいといえばらしいのですが、正直に言って、途中で誰が誰だか分からなくなります。

それでも私がこの映画を何度か見返しているのは、題材が珍しいからです。

出産する女性やそのパートナーを主役にした映画は山ほどあります。しかし、産婦人科医の側を主役に据えて、あの界隈そのものを描いた作品となると、ほとんど思い当たりません。洋画でパッと思いつくのは『戦慄の絆』くらいでしょうか。しかし、あちらは狂気の物語ですから、日常を撮ったものという意味では、この映画はかなり特殊な位置にあります。

主演はリチャード・ギア。彼が演じるDr. Tは、ダラスの高級住宅街で開業する婦人科医です。

冒頭からして異様です。オープニングクレジットが流れる間、カメラはひたすら待合室を映しています。裕福な女性たちが押し寄せ、喋り、看護師が走り回り、予約は完全に破綻している。中には、特に悪いところもないのに彼に会いたくて通っている患者もいる。

Dr. Tは、女性というものを心から敬愛しています。友人にも「女はみな神聖だ」と真顔で語り、街の議員を動かして、テキサスで初めて女性の名を冠した道路を作ろうとまでする。彼にとって女性崇拝は信仰なのです。

そして、その信仰が崩れていきます。妻は架空の病でショッピングモールの噴水で服を脱ぎ、施設に入れられて子どもの精神状態に退行する。長女は結婚式を控えながら、実はその式で付添人を務める女友達と恋愛関係にある。次女は陰謀論者。秘書は彼に横恋慕している。そして自身は、ゴルフ場に現れた女性に惹かれていく。

——と、ここまで書いてきて、私自身が何を説明しているのか分からなくなってきました。

読んでくださっている方も、おそらく同じ状態だろうと思います。申し訳ありません。ただ、これは私の書き方が悪いというより、映画そのものがそうなのです。この調子で2時間、全員が勝手に喋り続けます。ですから、人物関係はもう忘れていただいて構いません。

私がこの回で書きたいのは、診察室の場面についてです。

リヴ・タイラーが出てきます。

彼女が演じるのは、長女の結婚式で付添人を務める女友達であり、同時に恋人でもある女性です。ある日、彼女がDr. Tの患者としてクリニックを訪れます。

公開当時の彼女は23歳。売れっ子でした。16歳でエアロスミスの「クレイジー」のビデオクリップに出て一躍知られ、19歳でベルトルッチの『魅せられて』のヒロインに抜擢され、21歳で『アルマゲドン』の世界的ヒットを経ている。あの頃の彼女には独特の質感があって、顔立ちにはまだ子どもの丸みが残っているのに、佇まいは妙に大人びている。あどけなさと色気が、どちらも引っ込まないまま同居していました。

『魅せられて』のときも、彼女はほとんど見られる役でした。トスカーナの別荘で、芸術家たちが彼女を眺め、彫刻のモデルにし、誰が処女を奪うかという話にまでなる。19歳の彼女は、その視線の的として画面の中央に置かれていたわけです。

そして23歳で、婦人科の診察台に上がるのです。

診察の最中、彼女はDr. Tに、付添人を頼まれたストレスで体調を崩したのだと思う、というようなことを話します。その会話の流れで、Dr. Tは気づいてしまう。目の前で脚を開いているこの女性が、自分の娘の恋人なのだと。彼は動揺し、診察を中断して、看護師に代わってもらいます。

女性を崇拝し、毎日何十人もの女性を診察してきた男が、相手が誰であるかを知った瞬間に、手が止まってしまう。身体は何ひとつ変わっていないのに、名札が変わっただけで続けられなくなるわけです。

そしてリヴ・タイラーの方は、その間ずっと台の上にいます。医師は看護師を呼んで降りられましたが、彼女は降りられません。

体当たりという言葉がありますが、まさにあれだと思いました。今の日本で、同世代の売れっ子女優が同じ役を引き受けるかというと、なかなか難しいのではないでしょうか。

そして、彼女の演じ方がまた見事でした。

平然としているわけではありません。むしろ逆で、緊張が隠しきれていない。台の上で深呼吸をして、これは脚を触られているのと同じことだ、というようなことを自分に言い聞かせています。

私はここで、少し驚きました。

自分の身体をいったん別のものとして扱わないと、あの姿勢には耐えられない。それを彼女は、演技として画面に出しています。悲劇にも笑いにも寄せず、耐えている最中の人として、そこにいる。

結果として、あの場面には二人分の緊張が並びます。台の上で自分に言い聞かせている女性と、途中で気づいて取り乱す医師です。ただし逃げられるのは医師の方だけで、彼女は言い聞かせ続けるしかありません。

売れっ子の若手女優が引き受けた役として、これはずいぶん割に合わない仕事だったのではないでしょうか。それでも引き受けて、しかもここまで細かく演じている。私はそこに、この人はいい役者だな、と素直に思ったわけです。

とっち散らかった映画ではありますが、このシーンのためだけにも見る価値があるかもしれません。

それでは、また気が向いた時に。

***

【2026年9月9日追記】

先日、この映画を久しぶりに見返しました。そして、当初の記事では無意識にスルーしてしまっていたことに気がついたので、追記しておきます。

この映画で内診台に上がるのは、リヴ・タイラーだけではありません。何しろ婦人科が舞台ですから、他にも複数の患者が診察を受けます。そして物語の序盤から、かなり高齢の女性の診察シーンが出てきます。彼女もまたDr. Tのファンで、診察に至福の喜びを感じているような描写でした。

正直に書きますが、私はそこで、少し目を逸らしました。

一方、リヴ・タイラーの場面では逸らしていません。それどころか、体当たりだ、いい役者だと感心して、こうして一本書いているわけです。

同じ映画の、同じ診察台です。カメラの位置も、演出も、そう変わりません。違うのは、乗っている人だけです。

そうすると、私が称賛していたものは、いったい何だったのでしょうか。

もし本当に勇気を称賛していたのなら、あの高齢の女優の方にこそ、同じかそれ以上の言葉を贈るべきだったはずです。得るものは少ないでしょうし、話題にもなりません。それでも引き受けている。

しかし私は、彼女には一言も贈らず、目を逸らしました。そしてリヴ・タイラーには、あれだけの分量を費やして感心しました。

要するに、若くて美しい女性が脚を開いたことに、私は「いい役者だ」という立派な名前をつけていただけなのだろうと思います。称賛のふりをした鑑賞です。

この回のタイトルに、私は「ベビーフェイスの引力」と書きました。彼女の魅力のことだと思って書いたのですが、どうやら違ったようです。引力は、私の側にありました。

そう考えると、Dr. Tのことも笑えません。

彼の崇拝は、対象が「女性」という抽象名詞であるうちしか機能しませんでした。目の前の一人が具体的な誰かになった瞬間、持ちこたえられずに看護師を呼んだ。

ただし、序盤のあの高齢の患者に対しては、彼の信仰はきちんと機能しています。彼女は至福の表情で診察を受けていました。あそこでは、崇拝が届いているのです。

そして私は、崇拝が崩れる場面には食いつき、成立している場面は素通りしました。

しかも、Dr. Tは少なくとも看護師を呼びました。私は逸らしただけで、何もしていません。

本文はそのまま残しておきます。消してしまうと、何を書いたのか分からなくなりますので。

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