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本ブログは、医療空間における権力構造や、そこに生じる心理的な嫌悪感・ざわつき等を分析・考察するものです。特定の医療機関や従事者を非難・攻撃するつもりはありませんが、記事の性質上、医療現場の生々しい実態や直接的な表現が含まれる場合があります。ご自身の心身の状況に合わせて、無理のない範囲で閲覧をご判断ください。詳しくはサイトポリシーをご一読ください。
こんにちは、御簾納です。
今回は、かつてこのブログでも度々鋭い知見を提供してくれた、私の頼れる友人・Sさんとの雑談から始めてみましょう。
最近はすっかり「現場のリアリスト(鋭いツッコミ役)」として君臨している彼女ですが、こと空間と精神の分析において、彼女の右に出る者はいません。
以前、彼女と「婦人科の空間で感じる『恥ずかしさ』のピークはどこか」という話になった時のことです。私としては当然、内診台で脚を開き、クスコなどの器具を入れられて患部を直接見られている「診察の真っ最中」が一番恥ずかしいのだろうと考えていました。しかしSさんは、私の浅はかな推測をあっさりと否定し、極めて哲学的な一言を放ったのです。
「一番恥ずかしいのは、内診の前にパンツを脱いでいるところを見られた時ね」
彼女はこれを、温泉の脱衣所に例えて見事に説明してくれました。
服をすべて脱ぎ捨てて、いざ浴場(お湯の中)に入ってしまえば、周りも全員裸なのだから恥ずかしくもなんともない。しかし、脱衣所で「服を脱いでいる最中の姿」を、特に服を着たままの従業員なんかに見られるのは、たまらなく居心地が悪くて恥ずかしいですよね。
婦人科の脱衣スペースで、下半身を丸出しにするその「過程」を、制服をピシッと着た看護師さんに見られるのにも、それと全く同質の恥ずかしさがあるのだと。相変わらず、彼女の解像度の高さには舌を巻きます。
なるほど! と膝を打った私ですが、さらにネット上の女性たちの声を拾い集めてみると、もう一つ強烈な「恥ずかしさのピーク」が存在することに気がつきました。
それは、「内診台の上で脚を開かされたまま、医師が来るのを待たされている時間」です。
ウィーンと台が上がり、完全に無防備な開脚姿勢をとらされた状態で、「先生が来るまで少しお待ちくださいね〜」と放置されるあの数分間。多くの女性が、実際の診察本番よりも、この「待たされている時間」の方が遥かに恥ずかしく、絶望的な気分になると語っているのです。
普通に考えれば、直接性器を見られ、器具を入れられている「診察本番」の方が恥ずかしいはずですよね。それなのに、なぜ女性たちは「パンツを脱ぐ瞬間」や「開脚して待っている時間」の方に、より強烈な羞恥心を覚えるのでしょうか。
ここでまた私の悪い癖、空間社会学の理屈っぽいフィルターが発動してしまうのですが、この2つの状況には極めて重要な共通点があります。
それは、「医療という大義名分(建前)」が、一時的に機能不全に陥っているという点です。
医師が実際にエコーを入れたり、クスコで覗き込んだりしている「本番中」。この時、女性の頭の中には「これは正当な医療行為である」という強力なシールド(建前)が張られています。医師は真剣に病変を探すプロフェッショナルであり、自分は「診察を受ける患者(あるいは物体)」である。この明確な意味付けがあるからこそ、女性は精神を切り離し、羞恥心を耐え忍ぶことができます。
しかし、「パンツを脱いでいる途中」はどうでしょうか。
そこにはまだ医療行為は発生していません。服をバッチリ着込んだ権力者(看護師)の前で、自分がただの「社会的な鎧(衣服)を剥がれつつある、無力で滑稽な肉体」に成り下がっていくプロセスがあるだけです。
「開脚したまま待たされている時間」も全く同じです。
診察が始まっていない以上、その行為にはまだ「医療」という大義名分が宿っていません。ただ単に「下半身を限界まで広げて虚空を見つめているだけの、無防備な女」という、極めてグロテスクで意味のない状態だけが、密室の中にポツンと取り残されているわけです。
つまり、女性たちが内診の前後で感じる「恥ずかしさの正体」とは、患部を見られることそのものではないんですよね。
「自分を守ってくれる『医療』という建前がない状態で、ただ無防備な肉体だけを曝け出さなければならない空白の時間」に対する、根源的な恐怖と居心地の悪さなのです。
大義名分という名の防護服を脱がされ、ただの肉体へと還元されるグラデーションの時間。
あの内診台という装置は、診察そのものよりも、その前後に生まれる「意味のない空白」によって、女性の尊厳を最も鋭く削り取ってくるのかもしれませんね。いやはや、空間のバグというのは恐ろしいものです。
それではまた、次のふとした違和感の前で、お会いしましょう。


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