【No.055】チンコの『死に顔』と、ちくわの穴 —— 妻の痛烈な一言

社会とジェンダー

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こんにちは、御簾納です。

自分たちが同じ台に乗せられていると気づいた直後に、私はもう一つ、聞かされることになりました。

前回の続きです。TURPの映像を見せられた妻が「昼間からこんなもん見せるな」と吐き捨てた、その後の話をします。

彼女は画面から目を逸らしながら、もう一言、こう付け加えました。

「尿道はチンコの顔だからね。表情がある。でも、これは、死んでるときの顔。苦しいとか、悲しいとか、何の感情もないひたすら無表情」

そして、最後にふっと笑って、こう言ったのです。

「チクワの穴みたいだね」

私は戦慄しました。

——ここで、いつもの私なら、解説を始めるところです。男性にとって性器とはパワーとアイデンティティの象徴であり、医療システムはその象徴を解体し、云々。前回書いた通り、それが私の防空壕です。

やってみようとして、うまくいきませんでした。

言葉が浮かばなかったのではありません。浮かんだのですが、書いても何も処理できなかったのです。

理由は、はっきりしています。

前回、私は自分でこう書きました。前立腺の肥大は高齢者だけの話ではない、40代、50代でも手術の適応になることは珍しくない、と。

画面に映っているのは、他人の器官です。しかし構造上、それは私の器官でもあります。今日でなくても、十年後か、二十年後か。順番が来たとき、私の尿道も、同じ「死に顔」で映されます。

妻は、笑いました。

彼女には、そういう器官がないからです。あの映像は、彼女にとって最後まで他人の話でした。だから「チクワの穴みたいだね」と言えた。悪意ではありません。距離があるから、距離のある言い方ができただけです。

私は、笑えませんでした。

これまで五十話以上、私は女性の身体が客体化される現場を書き続けてきました。書けたのは、書いている間ずっと、私が画面の外にいたからです。安全な位置から、構図を分析していればよかった。

今回、その位置がなくなりました。

主体性を奪われ、器具を出し入れするためだけに開かれ、固定された、中身の空っぽな穴。表情のない、死んでいるときの顔。それを、私は分析対象としてではなく、自分の順番として見ています。

女性を性的なまなざしで消費し、彼女たちに防衛線を張らせているうちは、男はまだ加害的なオスとしてのパワーを持っています。しかし、チクワの穴になった男には、女性を消費する欲望もパワーも何一つ残っていません。女性にとって脅威ですらない、ただの無機質な肉のパイプです。

そこにあるのは、エロティシズムすら微塵も介在しない、ただひたすらに哀れで、絶対的な虚無です。

——ただ、書きながら、一つ引っかかっていることがあります。

妻は、あの映像を見て笑いました。

では、もし逆だったら、どうだったでしょうか。

私が彼女に、内診台の映像を見せたとして。器具が挿入され、内部が照らされ、モニターに映し出されるところを。

彼女は、笑わなかったと思います。「チクワの穴みたいだね」とは、絶対に言わなかった。

同じ台の上で、同じように開かれ、同じように固定されているのに、片方は笑えて、片方は笑えない。

その差が何なのか、次回、もう少し考えてみます。

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