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本ブログは、医療空間における権力構造や、そこに生じる心理的な嫌悪感・ざわつき等を分析・考察するものです。特定の医療機関や従事者を非難・攻撃するつもりはありませんが、記事の性質上、医療現場の生々しい実態や直接的な表現が含まれる場合があります。ご自身の心身の状況に合わせて、無理のない範囲で閲覧をご判断ください。詳しくはサイトポリシーをご一読ください。
こんにちは、御簾納です。
Sさんとの対話が続いています。ここまでで彼女が私に叩き込んだのは、あの台の上で女性が何をしているか、ということでした。顔と下半身を切り離し、向こう側にあるのは自分ではないと言い聞かせ、幽体離脱して時間が過ぎるのを待つ。人間であることを一時的にやめる以外に、あの空間をやり過ごす方法はない。
その解剖に打ちのめされたまま、私は頭を冷やすつもりで、いつものようにネットの掲示板を漁っていました。婦人科の受診を控えた女性たちが、匿名で交わしている雑談です。
そこで、Sさんの解剖と噛み合わない光景に出くわしました。
彼女たちは、必死で身体を洗っていたのです。
「明日検診なんだけど、シャワー浴びる時間なさそうで詰んでる」
「一応整えていった方がいいのかな。汚いって思われたくない」
「私は前日と当日で二回洗ってる」
「病院のトイレでもう一回拭いた」
生理と重なったので予約を取り直した、という声も複数ありました。身体の不調を調べに行くはずの場所に、身体が万全でないから行けない。倒錯しています。
これを「日本の清潔信仰」や「女性に押し付けられた美意識」の話として片付けるのは簡単です。実際、その側面は間違いなくあるでしょう。
しかし、私が引っかかったのはそこではありません。
考えてみてください。彼女たちは、これから「検体」になるはずなのです。
Sさんの言う通り、あの台の上で人間をやめ、ただの粘膜として処理されるのだとしたら、洗う必要などどこにもない。検体は綺麗である必要がない。汚れているかもしれないから調べるのであって、綺麗にしてから出すサンプルに意味はない。
採血の前に血管を磨く人はいません。胃カメラの前に胃を洗う人もいない。
にもかかわらず、婦人科の前でだけ、彼女たちは洗う。二回も、三回も。
そして、このやり取りの中に、私はこのブログを始めて以来、最も静かで、最も不可解な一行を見つけました。
洗う洗わないで悩んでいる相手に、ある女性がこう書き込んでいました。
「そんなに気にしなくても、向こうは仕事で見てるだけだから、いちいち何も思ってないよ」
至極まっとうな慰めです。実際その通りでしょう。医師にとっては何百人目かの粘膜であり、そこに感想などない。
しかし、返信がこうでした。
「頭では分かってるんだけどね」
私は、この一行の前でしばらく動けませんでした。
頭では分かっている。分かった上で、それでも洗う。
つまり彼女は、「自分は検体として処理されるだけだ」という理屈を、完全に理解しているのです。理解した上で、身体の方が言うことを聞かない。手が動いてしまう。
私はこれを、無菌化の呪いだと考えました。
社会が女性の身体に「常に清潔で、無臭で、整っていなければならない」という規範を刻み込みすぎた結果、彼女たちは、本来なら汚れたまま駆け込んでよいはずの場所にすら、完成された状態で出頭しようとしてしまう。理屈で解除できないところまで、それは食い込んでいる。
そして、ここに男の側の、あまりにも間抜けなすれ違いが重なります。
我々男は、女性の身体に「人間味」を求めていると言いたがる。生々しくていい、完璧でなくていい、そのままでいい、と。しかし、そう言う男に限って、彼女がその「そのまま」を見せた瞬間に、うろたえるか、笑うか、目を逸らす。私を含めて。
何度も裏切られてきたから、洗うのでしょう。
——ここまで書いて、一つ、どうしても片付かないものが残りました。
「頭では分かってるんだけどね」。
彼女は、誰に向かって身体を整えているのでしょうか。
提出先が機械なら、システムなら、制度なら、洗う理由はない。むしろその方が楽なはずです。しかし洗うという行為が発生している以上、彼女の身体は、カーテンの向こう側に「誰か」がいることを、すでに知ってしまっている。
幽体離脱は、台の上でしか使えない技術です。彼女はその前の晩、自宅の風呂場で、すでに人間として誰かの視線に晒されている。
……これは何かの尻尾だと思うのですが、今の私には掴めません。ノートの隅に書き留めておくだけにして、次回、またSさんの解剖に戻ります。


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