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本ブログは、医療空間における権力構造や、そこに生じる心理的な嫌悪感・ざわつき等を分析・考察するものです。特定の医療機関や従事者を非難・攻撃するつもりはありませんが、記事の性質上、医療現場の生々しい実態や直接的な表現が含まれる場合があります。ご自身の心身の状況に合わせて、無理のない範囲で閲覧をご判断ください。詳しくはサイトポリシーをご一読ください。
こんにちは、御簾納です。
埃を被っていた私の研究ノートの切れ端も、いよいよ最後の一ページとなりました。締めくくりとして、今回は思春期外来という、極めて特殊でデリケートな空間について考えてみたいと思います。
これまで私は、大人の女性にとっての婦人科の暴力性や、パステルカラーで偽装された権力構造について語ってきました。しかし、この密室に放り込まれるのが未成年の少女であった場合、空間がもたらす暴力の質は、さらに別のものへと変わります。
非常にセンシティブなテーマですので、現実の生々しいルポルタージュとして語ることは避けます。その代わり、映画やドラマというフィルターを通して、彼女たちが直面する空間について考えてみたいと思います。
まず、少女たちがクリニックのドアを開けた瞬間に直面する、空間のミスマッチについて。
これを視覚的に最も残酷に描き出したのが、2006年の日本のテレビドラマ『14才の母』です。
志田未来さん演じる中学生の主人公が、妊娠を疑って一人で産婦人科の待合室に座っている場面。あの空間の異様さを思い出してみてください。周りは、幸せそうに膨らんだお腹を愛おしそうに撫でる大人の妊婦たちばかりです。パステルカラーで彩られ、優しいオルゴールが流れるその母性のサンクチュアリの中央に、ポツンとセーラー服が座っている。
これほど強烈な空間のミスマッチがあるでしょうか。大人の女性を癒すために設計されたはずの空間が、制服を着た未成年から見れば、自分の存在を拒絶し、孤立を際立たせるアウェーの空間として牙を剥くわけです。
さらに、思春期特有の張り詰めた感受性は、空間そのものを主観的に歪ませてしまいます。
2007年のアメリカ映画『JUNO/ジュノ』。16歳で予期せぬ妊娠をした少女ジュノが、中絶のために町のクリニックを訪れるです。
入口の前では、同級生の少女が一人でプラカードを掲げて抗議をしています。彼女がジュノに向かって、赤ちゃんにはもう爪が生えているのだ、というようなことを言う。ジュノはそれを聞き流して中に入るのですが、待合室に座ったあと、彼女の目に飛び込んでくるのは、そこにいる人々の指ばかりになります。爪を鳴らす手、爪を噛む手、爪にやすりをかける手。
そして彼女は、耐えきれずに逃げ出します。
外で聞いた一言が、待合室の光景を作り変えてしまったわけです。空間というものは客観的に存在しているのではなく、誰の眼球を通して見るかによって、まるで違うものに変わってしまう。見事な描写だと思います。
もっとも、この場面は公開当時からずいぶん議論されてきたようです。結果としてジュノは中絶をやめるわけですから、抗議者の言い分が通ったことになる。しかも彼女が言った内容には、医学的に怪しいところもあるらしい。脚本家自身が後年、今なら同じようには書かなかったかもしれない、という趣旨のことを語っています。
私はここでは、その議論には立ち入りません。待合室の描写が見事だという話だけをしています。
そして、いざ診察室という密室に入ってからも、少女たちにはもう一つの絶望が待っています。
1990年代の日本のドラマ、例えば『高校教師』を振り返ると、未成年の少女が産婦人科に足を踏み入れる場面は、まるで心理スリラーのように冷たく重苦しいトーンで描かれていました。当時の映像作品は、大人社会の医療空間に飲み込まれる恐怖を、包み隠さず映し出していたわけです。
かつてこのブログの【No.023】で、私は2020年の映画『17歳の瞳に映る世界』を取り上げました。中絶のためにクリニックを訪れた17歳の少女が、カウンセリング室でソーシャルワーカーの問診を受ける長回しの場面。私はあのとき、この描写を「対象をモノとして消費せず、痛みに寄り添う成熟したまなざしだ」と絶賛しました。
しかし今回、思春期の少女と空間という角度から見直してみると、また別のことが見えてきます。
あの場面のソーシャルワーカーは、決して高圧的ではありません。極めて静かに、倫理的に、少女に寄り添おうとしています。しかし、大人の側がどれほど配慮したとしても、密室で大人と向かい合い、自分の最もプライベートな性や暴力の被害について言葉にしなければならないという構造そのものは、変わりません。
彼女が選択式の質問に言葉を詰まらせ、涙を流していくあの場面は、内診台という物理的な暴力の前に、大人から問診を受ける密室そのものが、少女にとってどれほど過酷な空間であるかを示しています。
こうして並べてみると、思春期外来というものがなぜ必要なのか、その理由が見えてきます。
大人の妊婦たちの空間から動線を切り離し、制服という鎧を着たままでも怯えずにアクセスでき、密室の重圧を減らした場所。大人向けに最適化されたシステムの中に未成年を放り込むことが、どれほどの負荷を生むか。私たちは、カーテンの向こう側の権力構造だけでなく、待合室の椅子にポツンと座るセーラー服の孤立にも、もっと早く気づくべきだったのかもしれません。
***
さて、ここまで書いて、ノートを閉じようとしたのですが。
冒頭に自分で書いた一文が、どうにも気になっています。
「非常にセンシティブなテーマですので、現実の生々しいルポルタージュとして語ることは避けます」
なぜ避けたのでしょうか。
センシティブだから、というのは、たしかにそうです。ただ、このブログはこれまで、そこそこセンシティブなことを平気で書いてきました。内診台のオナラの話も、採精室のアダルトビデオの品揃えの話も、避けていません。
では今回だけ避けたのは、なぜなのか。
答えは、たぶん単純です。制服の少女が診察台に上がるという話を、四十過ぎの男が熱心に書いていたら、どう思われるかということです。
そう思われるのが嫌だったので、私は映画の話にしました。作品評という形にしておけば、私が見ているのは少女ではなく、メディアの表象だということになります。安全です。
そういえば、途中でも一度逃げていました。『JUNO』の場面について、その議論には立ち入りませんと自分で書いています。あれも同じ動作でしょう。
ただ、書きながらもう一つ思い出したことがあるので、そちらも書いておきます。
私にも、14歳だった時期があります。
当時、同じ教室に、同じ年の女子が20人ばかりいました。彼女たちの中に、あの待合室に座った経験を持つ子がいたかどうか、私は知りません。
というより、そういう場所があること自体、当時の私はほとんど何も知りませんでした。婦人科という単語は知っていたと思いますが、それが何をする場所で、どういう椅子が置いてあって、そこに同級生が座る可能性があるということは、一度も考えたことがなかったのです。
ただ、一度だけ、そういう話を耳にしたことがあります。
塾の教室で、授業が始まる前に、後ろの席の女子たちが話していました。誰それが産婦人科に通っているらしい、と。なんで、と誰かが聞いて、来るものが来ないんだって、と返していました。
同じ高校の子たちではなかったので、話に出てきた本人が誰なのかは分かりません。顔も知らない。ただ、その会話だけが、妙にはっきり残っています。
自分と同じ年頃の女子が、実際にあの椅子に乗せられている。当たり前といえば当たり前の話なのですが、当時の私にとっては、それがどこか遠い世界の出来事ではなく、すぐ隣で起きていることなのだと、初めて認識した瞬間だったのだと思います。
もっとも、その程度です。認識しただけで、それ以上は何も考えませんでした。
そのくせ、女子の身体については、それなりに考えていたわけです。四六時中と言ってもいい。ただしそれは完全に自分側の話で、彼女たちの側に何が起きているかは、まったく視野に入っていませんでした。
知らないのに、興味だけはあった。
その少年が、そのまま40年ほど生きて、いまこのブログを書いています。
今の私が「どう思われるか」を気にして映画の話に逃げたのは、まあ、そういう過去に心当たりがあるからでしょうね。思われて当然のことを、実際にやっていたわけですから。
ついでに白状しますと、思い当たることがもう一つあります。
このノートの切れ端という連載も、そもそもがそういうものだったのかもしれません。
少し前に、私はSさんに完膚なきまでに叩き潰されました。そのあと私が始めたのが、待合室のオルゴールを面白がったり、フードコートの呼び出しベルに感心したりする、この軽い読み物だったわけです。
もちろん、書いていたことに嘘はありません。オルゴールの件も、呼び出しベルの件も、面白いと本気で思って書きました。
ただ、面白がっている間は、あの正面の問題を考えなくて済みます。
そういう意味では、私はこの数か月、なかなか快適な場所にいたのだと思います。ノートの切れ端という名前まで付けて、切れ端なのだから答えを出さなくてもいい、ということにして。
まあ、そのノートも、もう白紙になってしまいました。
切れ端がなくなったので、次に何か書くとしたら、今度は自分で考えなければなりません。それが少々、億劫なのです。
このブログを始めたとき、私は自分が何か言うべきことを持っていると思っていました。今もそう思っているのかというと、正直なところ、よく分かりません。
まあ、そういう日もあるのでしょう。
それでは、またいつか気が向いた時に。


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