【No.057】見えないカーテンの向こう側 —— 敗北からの反撃と、空間社会学の真の幕開け(最終回)

空間と装置

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本ブログは、医療空間における権力構造や、そこに生じる心理的な嫌悪感・ざわつき等を分析・考察するものです。特定の医療機関や従事者を非難・攻撃するつもりはありませんが、記事の性質上、医療現場の生々しい実態や直接的な表現が含まれる場合があります。ご自身の心身の状況に合わせて、無理のない範囲で閲覧をご判断ください。詳しくはサイトポリシーをご一読ください。

こんにちは、御簾納です。

 Sさんが身を呈して突きつけた現実と、妻が語った「チクワの穴とエロティシズム」の残酷な真理。それらを前にして、私は一度完全に筆を折ろうとしていました。

「男の暴力的なまなざしが浄化されていない社会において、安易に空間をオープンにすることは、女性たちを視線の暴力へ放り出す公開処刑に他ならない。あのカーテンは、女性たちが自らの精神を破壊されないためにすがりつくしかない、悲痛な『防空壕』だったのだ」

私はそう結論づけ、「ならば男である私は、自分たちが背負う消えないエロティシズムの加害性という罪から目を背けず、十字架を背負って生きていくしかない」と、この思索の連載を美しく締めくくろうとしていたのです。

しかし、過去の自分のノート(【No.019】や【No.039】)を何度も読み返しているうちに、どうしても拭いきれない『決定的な矛盾』に気がつきました。

そうです。欧米の婦人科には、お腹を隔てるカーテンも、脚を強制的に開かせる全自動内診台も存在しないではないですか。

これは、海外で診療経験のある日本の産婦人科医が、複数、自分の目で見て書き残していることです。あちらの診察台は、簡素な台であることも珍しくない。カーテンに至っては、そもそも発想がない。

——ここで、私は一度、手を止めました。

書きかけていた次の一文は、こうです。「諸外国でも当然、男性医師のまなざしは存在するはずだ。それにもかかわらず、彼らはより成熟した、対話的な空間を保っている」。

前回、私は自分の悪い癖を見つけたばかりでした。人から聞いた話の空白に、自分の持論を流し込んで、裏付けが取れたことにする癖です。

海外の内診室に、私は入ったことがありません。あちらの医師がどんな顔で診察しているのか、患者とどんな会話をしているのか、一つも見ていない。にもかかわらず、私はいま、「より成熟した対話」という言葉で、その空白を埋めようとしていました。そして埋めようとした内容は、またしても、私の論に都合よくできています。

書くのをやめます。

代わりに、確かめられることだけで話を組み立て直します。

海外の男が、日本の男より紳士だという証拠を、私は持っていません。

ですから、仮定してしまいましょう。あちらの男のまなざしも、こちらと同じだと。エロティシズムの引力も、視線の非対称も、まったく同じだけ存在すると。Sさんが言った通り、男のエロい視線がある限り、女性は検体になりきれないのだと。

それでも、あちらにはカーテンがありません。こちらにはあります。

同じまなざしの下で、部屋の形だけが違う。

——ということは、あの部屋の形を決めているのは、まなざしではありません。

前回まで、私はこう書いていました。問題の根源は空間の構造ではなく観察者の側のフィルターにある、と。男という生き物に根付いたまなざしの暴力は、どれほど空間を洗練させても消せない、と。

前半は、間違っていませんでした。まなざしは消えません。私自身が証明しています。

しかし後半、「だから空間の側には打つ手がない」と結論づけたのは、飛躍でした。

まなざしが同じでも、部屋の形は変わりうる。現に、変わっている国があります。だとすれば、日本のあの密室を作ったのは、男の生物学ではありません。もっと具体的な何か——医療制度の作られ方、経営の都合、この社会が女性の身体について何をどう教えてきたか、あるいは教えてこなかったか——そういうものが、あの形を選ばせている。

生物学のせいにするのは、逃げ口上でした。しかも、その逃げ口上を口にしたのは、他ならぬ五話前の私です。

ここで、Sさんの言葉に戻ります。

「男のエロい視線がある限り、オープンにするなんて絶対に不可能」

彼女がこれを言ったとき、人類普遍の真理を語っていたのか、それとも、いま自分が生きているこの社会での実感を語っていたのか。

私には分かりません。聞いていないからです。

そして、ここでまた彼女の真意を推し量って、勝手に「彼女は本当はこう言いたかったのだ」と書くことも、できるにはできます。私はさっきまで、まさにそれを書こうとしていました。

やめておきます。

代わりに、私がどう受け取ったかを書きます。

私は、彼女の言葉を「諦めろ」という意味には取りませんでした。「男はどうしようもない生き物だから、空間を変えるなんて無駄だ」という宣告としては、受け取らないことにした。

そうではなく、「綺麗なシステム批判に逃げ込まず、もっと血まみれになって解剖し続けろ」という要求として受け取ることにしました。

彼女が本当にそう託したのかは、分かりません。受け取り方は、こちらの責任です。

そして、この受け取り方を選んだ以上、「男の業が深いから仕方ない」と現状を追認して思考停止することは、もうできません。

カーテンという物理的遮断(防空壕)が今なお必須であるというこの絶望的な条件の中で、それでもなお、女性が「モノ」として扱われる虚無感を、空間の力でどう解体していくのか。

私の空間社会学は、敗北したのではありません。

この息苦しい防空壕の底で、ようやく「真のスタートライン」に立ったのです。

とはいえ、日本の内診台とカーテンの本当の病理を解き明かし、空間のオルタナティブ(代替案)を提示する果てしない研究の旅は、ここからが本番です。早急に結論を出すことは、今の私にはできません。

したがって、怒涛のように続いたこの連続した思索の旅は、一旦ここで区切りとさせていただきます。

Sさんとの対話やこれまでのフィールドワークを通じて、私の手元のノートには、まだブログ記事という形にできていない無数のメモが残されています。本丸である内診台の議論からは外れるものの、決して目を背けてはならない「空間と身体にまつわる病理の断片」が、まだいくつも転がっているのです。

本丸の探求を水面下で継続しつつ、まずは頭を整理するために、ブログの更新はしばらくお休みをいただこうと思います。しかし、いずれまたこれらの「こぼれ落ちた空間の病理」を一つずつ解剖するために、必ずここに戻ってくるつもりです。

私たちの社会が隠し続けてきた深淵は、想像以上に深く、そして暗いものです。

しかし、私はもうそこから目を逸らすことはしません。

またいつか、新たな空間の扉の前で皆さんとお会いできる日を楽しみにしています。

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