【No.080】『漂白』を拒絶するカメラ —— 映画『あのこと』が暴く禁足地の真実

メディアと表象

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こんにちは、御簾納です。

今日は少し、私の好きな映画の話にお付き合いください。

今回取り上げるのは、フランス映画『あのこと(原題:L’Événement)』です。1960年代、中絶が違法だったフランスで、予期せぬ妊娠をした大学生のアンヌが経験する「数週間」を執拗に追いかけた作品です。  

この映画が、これまでの「感動的な産婦人科映画」と決定的に異なるのは、その徹底した非・視覚的演出の不在です。

多くのメディアは内診台での様子を巧妙に隠し、生命の誕生だけを「漂白」して映し出します。しかし、この作品のカメラは、アンヌが内診台に上がり、脚を広げ、冷たい器具を挿入されるその瞬間を、決して逸らしません。  

診察室の静寂の中に響く器具の金属音。医師の事務的で冷淡な視線。そして、アンヌの瞳に宿る、自らの身体が「公共の禁足地」として扱われることへの根源的な恐怖と孤独。  

日本の産婦人科において、分厚いカーテンや電動内診台が現実から目を逸らすための装置として機能していることはこれまで述べてきた通りですが、この映画の中にはカーテンなど存在しません。アンヌの身体は、医師や、違法な処置を施す老婆の目の前に、無防備に、そして徹底的に「露出」されています。  

これこそが、Sさんが私に突きつけた「男のエロい視線が排除できない以上、現実は決して綺麗ではない」という事実そのものです。

社会が「見たくないもの」として蓋をしてきた、女性の身体に起こる逃れようのない現実なのです。  

この映画のカメラは、観客に対して、エロティシズムを感じる暇など一秒も与えません。映し出されているのは「性」ではなく、生きるために自らの身体を賭ける一人の人間の「闘争」だからです。  

『あのこと』というタイトルが示す通り、私たちは長い間、婦人科で起きている現実を「あのこと」という曖昧な言葉のカーテンの奥に隠してきました。直視することの痛みから、新しい空間の在り方を模索する。この映画が突きつける「隠さない勇気」には、空間を考える上での大切な血肉が詰まっています。  

それでは、また気が向いた時に。

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