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こんにちは、御簾納です。
今日は映画の話です。フランス映画『あのこと』(原題 L’Événement、2021年)。
1960年代、中絶が違法だったフランスが舞台です。貧しい労働者階級の家に生まれ、知性と努力で大学に進んだアンヌという学生が、試験を目前にして妊娠に気づく。産めば未来が消えます。しかし中絶は犯罪です。彼女がたった一人で過ごす十二週間を追った作品で、2021年のヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を獲りました。
原作はアニー・エルノーの『事件』。自身の実体験を書いたもので、彼女は翌年ノーベル文学賞を受賞しています。主演はアナマリア・ヴァルトロメイ。
内容が内容ですから、ずいぶん覚悟のいる映画ではあります。
ただ、私がこの回で書きたいのは、話の中身ではありません。カメラがどこに置かれているかについてです。
婦人科の場面を扱った映画は、これまでもいくつか取り上げてきました。そしてどれも、カメラは部屋の中にいます。診察台の脇であったり、医師の背後であったり、少し離れた位置から全体を眺めていたり。見る側に置かれているわけです。
先日書いた『Dr. Tと女たち』もそうでした。あの映画のカメラは、診察室で起きていることを外から眺めています。だから私は、台の上の女優の演技に感心したり、別の患者の場面で目を逸らしたりできたわけです。眺める位置にいたからです。
『あのこと』は、そこが違います。
監督のオードレイ・ディヴァンは、こう語っています。カメラはアンヌ自身になるべきで、アンヌを見ている存在であってはならない、と。だから撮影に入る前、カメラと主演女優は、動きが一致する共通のリズムを見つけるまで、何度も一緒に歩いたのだそうです。
画面の比率も1.37:1という、いまどき珍しい窮屈な縦長です。これもカメラとアンヌを同期させるための選択だと説明されています。
つまりこの映画で、観客は見る側に座らせてもらえません。
これは、ちょっと厄介なことです。
私はこのブログで、婦人科という空間を外から解剖してきました。待合室の椅子の配置を観察し、カーテンの機能を分析し、装置の設計意図を推測する。全部、部屋を外から見る仕事です。そして、そういう仕事ができるのは、私があの台に上がらなくて済むからでした。
ところがこの映画は、その席を用意してくれません。カメラがアンヌと同期している以上、観客は彼女の位置に置かれます。彼女が診察を受ければ、こちらもその場所にいることになる。分析する距離が、最初から取り上げられている。
正直に言えば、私はこの映画を落ち着いて観ることができませんでした。
ただ、それは映画が痛ましいからではありません。眺める場所がないと、自分がどう振る舞っていいのか分からなくなるからです。
そして、それが分からなくなるということ自体が、この映画から受け取った一番大きなものだった気がします。
散らかったブログの中で、この回だけは、あまり気の利いたことを書けそうにありません。
それでは、また気が向いた時に。


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