【No.090】恥ずかしさの正体 —— 「医療の盾」が張られる前の、空白の時間

社会とジェンダー

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本ブログは、医療空間における権力構造や、そこに生じる心理的な嫌悪感・ざわつき等を分析・考察するものです。特定の医療機関や従事者を非難・攻撃するつもりはありませんが、記事の性質上、医療現場の生々しい実態や直接的な表現が含まれる場合があります。ご自身の心身の状況に合わせて、無理のない範囲で閲覧をご判断ください。詳しくはサイトポリシーをご一読ください。

こんにちは、御簾納です。

今回は、かつてこのブログでも度々鋭い知見を提供してくれた、私の頼れる友人・Sさんとの雑談から始めてみましょう。

最近ではすっかり、私の書くものに容赦なくツッコミを入れる役回りに落ち着いている彼女ですが、こういう話をさせたら、まず外しません。

以前、彼女と「婦人科の空間で感じる『恥ずかしさ』のピークはどこか」という話になった時のことです。私としては当然、内診台で脚を開き、クスコなどの器具を入れられて患部を直接見られている「診察の真っ最中」が一番恥ずかしいのだろうと考えていました。しかしSさんは、私の浅はかな推測をあっさりと否定して、こう言ったのです。

「一番恥ずかしいのは、内診の前にパンツを脱いでいるところを見られた時ね」

彼女はこれを、温泉の脱衣所に例えて見事に説明してくれました。

服をすべて脱ぎ捨てて、いざ浴場(お湯の中)に入ってしまえば、周りも全員裸なのだから恥ずかしくもなんともない。しかし、脱衣所で「服を脱いでいる最中の姿」を、特に服を着たままの従業員なんかに見られるのは、たまらなく居心地が悪くて恥ずかしいですよね。

婦人科の脱衣スペースで、下半身を丸出しにするその「過程」を、制服をピシッと着た看護師さんに見られるのにも、それと全く同質の恥ずかしさがあるのだと。相変わらず、彼女の解像度の高さには舌を巻きます。

なるほど! と膝を打った私ですが、ネット上の女性たちの声を拾い集めてみると、もう一つ、似たような「恥ずかしさのピーク」があることに気がつきました。内診台の上で脚を開かされたまま、医師が来るのを待たされている時間です。

ウィーンと台が動いて、脚が開いた格好のまま、「先生が来るまで少しお待ちくださいね〜」と言われて待つ、あの時間が、どういうわけか妙に恥ずかしい。特に大きな病院だと、その時間が長くて嫌になる、という声もありました。

普通に考えれば、直接見られ、器具を入れられている「診察本番」の方が恥ずかしいはずですよね。それなのに、なぜ女性たちは、パンツを脱ぐ瞬間や、脚を開いて待っている時間の方に、恥ずかしさを覚えるのでしょうか。

ここで、その時間に何か気の利いた名前をつけたくなるのが、私の悪い癖です。以前(【No.059】)、脱衣カゴから内診台までの数歩について書いたときにも、「主権を失った宙吊りの時間」などと名前をつけかけて、Sさんに鼻で笑われるのが目に見えたので、やめにしたことがありました。なので今回は、なるべく簡単な言い方にとどめておきます。

この二つの場面には、一つだけ共通点があります。まだ、診察が始まっていない、ということです。

前回、診察のあいだは「これは医療です」という建前が、彼女たちにとっても盾になっているのだろう、と書きました。医師は病変を探していて、自分は診察を受けている。その意味付けがあるからこそ、あの姿勢にもどうにか耐えていられる。

ところが、パンツを脱いでいる途中には、その盾がまだありません。服をきちんと着たままの看護師さんの前で、自分だけが一枚ずつ脱いでいく、という時間があるだけです。

開脚したまま待たされている時間も、同じです。脚はもう開いているのに、医師はまだ来ていない。盾が張られるのは診察が始まってからなので、そこには、ただ脚を開いて天井を見ている自分、という、何の意味も付いていない状態だけが、ぽつんと取り残されることになります。大きな病院でその時間が長いとなれば、嫌になるのも無理はありません。

つまり、女性たちが内診の手前で感じる「恥ずかしさの正体」とは、患部を見られることそのものというより、盾のないまま、身体だけがそこに置かれている、その空白の方にあるのかもしれません。

診察そのものよりも、その手前に生まれる意味のない空白の方が、よほどこたえる。あの内診台という装置は、器具を入れる前から、もう仕事を始めているということなのでしょう。いやはや、空間のバグというのは恐ろしいものです。

それではまた、次のふとした違和感の前で、お会いしましょう。

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