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本ブログは、医療空間における権力構造や、そこに生じる心理的な嫌悪感・ざわつき等を分析・考察するものです。特定の医療機関や従事者を非難・攻撃するつもりはありませんが、記事の性質上、医療現場の生々しい実態や直接的な表現が含まれる場合があります。ご自身の心身の状況に合わせて、無理のない範囲で閲覧をご判断ください。詳しくはサイトポリシーをご一読ください。
こんにちは、御簾納です。
前回は、0.1ミリにも満たない膜の話でした。責める相手のいない加害、というところに行き着いて終わっています。
対話は、そこからもう一段進みました。今度は物ではありません。医療が使う「言い方」の話です。
女性が婦人科で抱く羞恥の発生源は、子宮や卵巣ではないはずです。あれは、そもそも自分でも見たことのない臓器です。見られて恥ずかしいと感じるほど、自分のものだという実感がない。
恥ずかしいのは、そこへ到達するために通過しなければならない、外側の方です。
Sさんは、呆れたようにこう言いました。
「医療ってさ、本当に都合がいいんだよね。『私たちが診察しているのは内側の病気だから、入り口には性的な意味は一切ありません』って顔をするじゃない? でも、目的地がどれだけ内側の臓器だろうと、そこに到達するためには、絶対に一番見られたくない外側を直視して、かき分けないとダメでしょ?」
——目的地は内側だから。
この一言で、外側は「通り道」に格下げされます。
彼女が「絶対に一番見られたくない」と言った場所が、医療の説明の中では、目的地に至るまでの経路になる。通過するだけなのだから、そこに意味はない。意味がないのだから、恥ずかしがる筋合いもない。
概念の上では、そう処理されています。
しかし、身体の側は、そうなっていません。診察灯が、アームで引き寄せられ、角度を合わせられます。誰かが、そこへ向けて光を当てるという動作をします。そして光が当たっているのは、目的地ではありません。経路の方です。当たっている時間も、経路の方がずっと長い。
概念が「ただの通り道」と呼んでいるものの上に、光は、正確に、長く、留まっている。
では、医師はそこで何をしているのでしょうか。
分かりません。医師が何を考えてそこを見ているのかを、私は確かめていないからです。
確かめられるのは、一つだけです。この部屋が、医師に何を要求しているか。
要求を、そのまま言葉にすると、こうなります。
見ろ。しかし、見たと思うな。
正確に観察しろ。色も、形も、状態も、見落とすな。しかし、そこに何の意味も見出すな。目の前にあるものが、その人にとって「絶対に一番見られたくない場所」であることを、認識するな。
仮に、これを「視覚の漂白」と呼ぶことにします。ただし、漂白しているのは医師ではありません。漂白しろと命じているのは、この部屋の方です。
——そして、これは道徳の問題ではありません。実行できるかどうかの問題です。
人は、見たものを見なかったことにはできません。認識してしまったものを、認識しなかったことにもできない。それでも、この部屋はそれを要求します。しかも、一日に何人に対しても、何年にもわたって。
応えられなければ、その人は医師として失格になります。応えているように見えるなら、それは長い訓練の成果か、あるいは、応えているように見せているだけか。私には区別がつきません。区別する手段を、私は持っていません。
ただ、どちらであっても、そこに無理が乗っていることだけは確かです。
女性は、恥ずかしいと感じている場所を「ただの通り道」と呼ばれ、その感覚を置き去りにされます。医師は、意味のあるものを見ながら、意味を見るなと命じられます。
二人とも、同じ言い方に縛られている。
そして、この「目的地は内側だから」という言い方を、最初に誰が採用したのかを、私は知りません。誰か一人が決めたわけでもないでしょう。そう言うより他に説明のしようがなかったから、そう言うようになった。そして、そう言い出した人は、もうこの部屋にいません。
前回、私は「責める相手のいない加害」という言葉を使いました。あれは、手袋という物についての話でした。
今回は、物ですらありません。言い方が一つあるだけです。
それだけのもので、部屋の中の二人は、どちらも身動きが取れなくなっています。


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