【No.086】白い巨塔の底に流れる泥水 —— 原作小説が描いた「溝浚え」の衝撃

メディアと表象

【閲覧に関するご案内】
本ブログは、医療空間における権力構造や、そこに生じる心理的な嫌悪感・ざわつき等を分析・考察するものです。特定の医療機関や従事者を非難・攻撃するつもりはありませんが、記事の性質上、医療現場の生々しい実態や直接的な表現が含まれる場合があります。ご自身の心身の状況に合わせて、無理のない範囲で閲覧をご判断ください。詳しくはサイトポリシーをご一読ください。

こんにちは、御簾納です。

先日、本棚の奥から山崎豊子さんの『白い巨塔』を引っ張り出して、久しぶりに読み返しました。

言わずと知れた、日本の医療小説の最高峰です。浪速大学の第一外科の教授の椅子をめぐって、男たちが金と派閥と根回しで殴り合い、後半は医療裁判の泥沼へとなだれ込んでいく。何度もドラマになっていますから、原作は読んだことがなくても、筋だけはなんとなく知っているという方も多いのではないでしょうか。

ところが今回読み返してみて、私の目が釘付けになったのは、教授選でも裁判でもありませんでした。財前五郎の義父、財前又一が営む「財前産婦人科医院」の場面です。

五郎は、鬱々とした気分を抱えたまま、又一の医院を訪ねます。小説はこの場面を、ことさら陰鬱に描いています。院長が出てくるのを待つ五郎の耳に、ガラス戸の向こうから、患者の女性たちの「嬌声とも泣き声ともつかぬ声」が聞こえてくるのです。(同じ声でも、聞く側の気分によって、ずいぶん違って聞こえるものなのでしょうけれど。)

五郎はその声を聞きながら、内診台の上で両股を広げ、下半身を曝し、異物を差し込まれ、膣内を洗浄されている女性たちの姿を思い浮かべます。そして、その一人一人を、又一が「溝浚え(どぶさらえ)でもするかのような無造作さ」で、次々に診ていく様子を。

やがて戻ってきた又一は、悪びれる様子もなく、こう言います。

「待たせたな、今日はちょっと、手間のかかる溝浚えがあってな」

溝浚え、です。

若い方にはもうピンとこないかもしれませんが、溝浚えというのは、家の前の側溝にたまった泥やゴミを、スコップでさらい出す作業のことです。昔は町内総出でやる、ちょっとした年中行事のようなものでした。(四十代の私でも、子どもの頃に近所の大人たちがやっていたのを、かろうじて覚えている程度ですが。)

そういう、泥をかき出す作業の名前です。この言葉が何を指しているのかは、まあ、言うまでもないでしょう。当時、開業産婦人科の大きな収入源になっていた、人工妊娠中絶です。

読み返して、正直ぎょっとしました。今これをテレビで誰かが口にしたら、その日のうちに大炎上でしょう。

ただ、同じ小説の中には、もう一つこんな場面もあります。五郎が、愛人の花森ケイ子に言われた一言を思い出すのです。事前に何の相談もなく、さらりと、「今日あんたの子供を浚えてきたわ」。

愛人という立場もあったのでしょうが、それにしても、ずいぶんあっさりしたものです。「浚える」という言い方が、医者の世界の隠語というだけでなく、当の女性の口からもさらりと出てくる言葉として書かれている。中絶というものへの構え方そのものが、今とはずいぶん違っていた時代なのでしょう。

そう考えると、私がぎょっとしたのは、半分くらいは今の私の感覚のせいなのかもしれません。

それでもやはり引っかかるのは、これを書いたのが女性の作家だということです。

山崎豊子さんがどういうつもりでこの場面を書いたのか、本当のところは私には分かりません。ただ、少なくとも美化はしていない。女性の身体を町内の側溝と同じ扱いにする言葉を、男たちの目と口を通して、そしてケイ子の口からも、そのまま書き残しています。

連載が始まったのは、昭和三十年代の終わりです。戦後の優生保護法で中絶が事実上認められるようになってから、まだ十数年の頃。開業の産婦人科には、それこそ待合室からあふれるほど患者が詰めかけ、患者の側が医者に何かを尋ねることさえはばかられた時代でした。(このあたりの空気は、次回、映画版を見ながらもう少し書きます。)

しかも又一は、ただの金持ちの開業医ではありません。大学教授という肩書きに強烈な劣等感を抱えていて、婿の五郎を「投資株」に見立て、その教授選に莫大な金をつぎ込んでいく人物です。

つまり、五郎を教授の椅子に押し上げた金の、少なくとも一部は、あのガラス戸の向こうで「溝浚え」をして稼いだ金だということになります。

男たちが体面をかけて争う清潔な塔と、その塔を建てる金が湧いてくる泥の溝。山崎豊子さんは、その二つを、ひとつの家族の中に、さらりと並べてみせたわけです。少なくとも、私にはそう読めます。

それにしても不思議なのは、教授選や裁判の場面はドラマで何度も見てきたはずなのに、この溝のほうは、私の記憶にまったく残っていなかったことです。見た覚えがない、と言ったほうが正確かもしれません。

その「見た覚えがない」が、なぜなのか。次回は、歴代の映像版を見比べてみようと思います。

それではまた、次のふとした違和感の前で、お会いしましょう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました