【No.089】身体の裏切り、ではなく —— 「不可抗力の潤い」と、読み違える目

権力と医療倫理

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こんにちは、御簾納です。

前回は、あの手順が男の目にどう見えてしまうか、という話を書いて、最後に、この絵をいちばん恐れているのは誰なのか、という宿題を残しました。

答えは、調べ始めてすぐに見つかりました。あの台に上がる女性たち自身です。それも、男の目そのものより、自分の身体の方が、その絵に勝手に話を合わせてしまうことを、恐れているらしいのです。

婦人科の内診について、女性たちが匿名で相談を書き込む場所を覗いてみると、こういう声が、思っていたよりずっとたくさん見つかります。

「内診のとき、濡れてしまうのは変ですか」
「感じていると思われていたらどうしよう、と考えると、次の検診が怖い」
「天井を見て、ひたすら別のことを考えるようにしているのに、身体の方が言うことを聞かない」

中には、何か感じてしまった気がして、そんな自分が嫌になった、という書き込みもありました。

前回、ゼリーについてなら半分くらいは経験者のつもりだ、などと書きましたが、今回ばかりは、さすがに一ミリも経験者を名乗れません。

白状しますと、「濡れる=感じている」という等式は、私の頭の中にも、いつどこで覚えたのかも分からないまま、九九のような顔をして刷り込まれていました。けれど、少し調べただけで、この九九はあっさり間違っていることが分かりました。

粘膜に何かが触れたり擦れたりすると、身体は、本人の気持ちとは関係なく、潤いを出すことがあるのだそうです。傷つかないための、身体の側の備えだと考える研究者もいるようで、いずれにしても、本人が決めてやっていることではない。

身体の反応と本人の気持ちがずれる、という話は、研究の世界でもちゃんと調べられていて、カナダの研究者たちが中心になって、四十年近くにわたる百三十本あまりの研究をまとめて分析したところ、男性は身体の反応と本人の申告がわりと一致するのに、女性はそのずれが大きい、という結果が出ているのだそうです。

玉ねぎを切って涙が出ている人に、何がそんなに悲しいのかと聞く人はいませんが、私の九九は、ほとんどそれと同じことをやっていたわけです。何か感じてしまった気がする、という悩みにしても、刺激に身体が応えたというだけのことで、それを望んでいたかどうかとは、まるで別の話のはずです。

では、カーテンの向こうの医師は、それをどう扱っているのか。

何も言わずに、ガーゼや綿で拭き取るのだそうです。最初にこの話を読んだとき、私はその無言の拭き取りを、ずいぶん冷たい仕打ちのように感じていました。せめて何か一言くらい、と。考えてみれば、そこで何か一言かけられる方が、よほど困るわけですが。

調べてみると、医師にとって、腟の中の分泌物というのは、もともと診察の材料なのだそうです。量や色やにおいで、炎症や感染がないかを見る。子宮の入口がよく見えなければ拭く。手順の上では、ただそれだけのことのようで、そこに「感じているかどうか」を書き込む欄は、少なくとも私が調べた限り、どこにも見当たりませんでした。医師が何を思って拭いているのかまでは、相変わらず私には分かりませんが、何も言わずに拭く、というあの手順は、冷たいというよりも、彼女が恐れているのとはまるで別の帳簿を、黙ってつけている、ということなのかもしれません。

診察のあいだは、これは医療です、という建前が、彼女たちにとっても盾になっているのだと思います。だからこそ、あの姿勢にも耐えていられるのでしょう。ところが、身体が勝手にやることだけは、その盾の内側で起きてしまう。外から来るものなら防げる盾も、内側から湧いてくるものには、どうにも効かないわけです。

だとすると、彼女たちが恐れているのは、目の前の医師というより、もっと別のものなのかもしれません。

前回も持ち出した腹部エコーの話ですが、あのとき私は、探触子をぐっと押し当てられて、「うっ」と声が出かけたのでした。あのとき私が気にしたのは、せいぜい、痛がりの男だと思われやしないか、という程度のことです。身体が勝手に何かをやってしまうという点では、私の「うっ」も、彼女たちの潤いも、そう変わらないはずなのに、あの台の上でだけは、それが別の意味に読まれかねない。あの部屋は、たぶん世の中でいちばん、気持ちよくなってはいけない場所なのでしょう。だから、身体が勝手にやったことまで、何かの証拠のように見えてしまう。何の証拠なのか、というところまで考え始めると、話がこのブログの手に負えない方へ転がっていきそうなので、今日はここまでにしておきます。

「身体の裏切り」という言い方があります。実際、ネットの書き込みにも、そういう言葉で自分を責めている人がいました。けれど、こうして調べてきた限りでは、身体はべつに裏切ってなどいないのです。むしろ、傷つかないように、律儀に働いているだけで。裏切り、という言葉をどうしても使いたいのなら、それは、守ろうとしている身体を、勝手に別の意味に読んでしまう目の方なのではないか、という気がしています。

それにしても、身体というのは律儀なものです。私の身体などは、締め切りが近づくと決まって腰が痛くなるくらいで、私を守ってくれた試しが一度もありませんが。

それではまた、次のふとした違和感の前で、お会いしましょう。

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