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本ブログは、医療空間における権力構造や、そこに生じる心理的な嫌悪感・ざわつき等を分析・考察するものです。特定の医療機関や従事者を非難・攻撃するつもりはありませんが、記事の性質上、医療現場の生々しい実態や直接的な表現が含まれる場合があります。ご自身の心身の状況に合わせて、無理のない範囲で閲覧をご判断ください。詳しくはサイトポリシーをご一読ください。
こんにちは、御簾納です。
前回のマンモグラフィー(機械による圧殺)に続き、今日も上半身の医療空間についての話を。今回は、生身の人間が介入する領域——医師の指先による「乳房の触診」です。
医師が乳房全体をくまなく触り、指の腹で強く押し込み、乳腺の奥まで揉みしだくようにしてしこりを探す。その物理的な動作は、ベッドの上で恋人が行う愛撫と、ほとんど同じです。
同じ「乳房を揉まれる」という行為であるにもかかわらず、そこには天と地ほどの、あるいは生と死ほどの断絶がある。
恋人の手と、医師の手。この二つを隔てているものは一体何なのでしょうか。
……と、他人事のように書きましたが、恋人の手というのは、要するに私の手のことです。
私は妻の乳房に触れたことがあります。当たり前ですが。そして正直に言えば、そのとき私の手がやっていた動作と、医師が触診でやっている動作の違いを、私は説明できません。位置も、圧力も、動かし方も、たぶんそう変わらない。
違うのは目的だけです。私の手はエロスを探り当てるために触れ、医師の手はタナトスの兆候を探り当てるために触れる。
だから空間のルールは、この「目的の違い」を絶対的なものとして扱います。目的が違うのだから、これは愛撫ではない。医療用インターフェースの操作である、と。
しかし、これはずいぶん都合のいい理屈ではないでしょうか。目的が違えば、同じ動作が別物になる。そんなことを言い出せば、たいていのことは正当化できてしまいます。
「それもまた男の都合のいい解釈でしょ」とSさんに突っ込まれる声が聞こえてきそうですが、少なくとも医療というシステムは、空間のルールとしてそう機能させようとしています。
そして、ここが引っかかるところなのですが。私の手も、その理屈に守られているのではないか。
医師の手が「医療だから」で許されるように、私の手は「愛情だから」で許されている。どちらも、動作そのものではなく、貼られたラベルで判定されている。触られている側からすれば、どちらも「他人の手が自分の乳房を揉んでいる」という一点では変わりません。
しかし、このルールは女性にとって残酷な副作用をもたらします。
下半身の診察には、顔を隠して自分を切り離すためのカーテンが存在しました。
しかし、胸の触診にはカーテンがありません。女性は医師と顔を突き合わせた状態、あるいはすぐ目の前に医師の顔がある状態で、自分の「女としての象徴」が他者の手によって揉みしだかれるのを、意識を保ったまま耐えなければならないのです。
触診されている間、女性は一体どこに目をやればいいのでしょうか。
医師の顔を見るわけにもいかず、自分の胸で蠢く手を見ることもできない。虚無を見つめるように天井のシミを数えるか、目を固く閉じて壁を向くしかありません。一切の感情を殺し、ただの「肉の塊(マネキン)」になりきることを、視線から逃げ場のない状態で強要される。
この「視線の行き場のなさ」こそが、上半身の診察における最大の気まずさなのだと思います。
思えば、私が妻の乳房に触れているとき、彼女はどこを見ていたのでしょうか。
一度も気にしたことがありませんでした。
それでは、また気が向いた時に。


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