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本ブログは、医療空間における権力構造や、そこに生じる心理的な嫌悪感・ざわつき等を分析・考察するものです。特定の医療機関や従事者を非難・攻撃するつもりはありませんが、記事の性質上、医療現場の生々しい実態や直接的な表現が含まれる場合があります。ご自身の心身の状況に合わせて、無理のない範囲で閲覧をご判断ください。詳しくはサイトポリシーをご一読ください。
こんにちは、御簾納です。
当ブログではこれまで、内診台のカーテンや「デリケートゾーン」という言葉など、隠蔽の構造について考えてきました。今回は少し視点を変えて、私たちが普段何気なく目にしている「看板」の言葉から、社会の無意識の眼差しを解剖してみたいと思います。
街を歩けば、「産婦人科」という看板をよく見かけます。
私たちはこの「産科」と「婦人科」を一つの医療分野としてまとめて認識しがちですが、実はこの二つの領域に対する社会的な眼差しには、驚くほどの温度差――ひいては決定的な分断が存在していることに気づかされます。
まず「産科」について考えてみましょう。
産科は言うまでもなく、新しい生命の誕生、すなわち「お産」を扱う領域です。社会にとって次世代を担う子どもが産まれる場所であり、そこには国家的な保護と、ある種の「神聖性」が付与されます。
産科の医療現場においても、女性は肌を露わにし、内診台に乗るなどの物理的な負担を強いられますが、社会はそれを「母になるための尊い試練」「産みの苦しみ」として称賛の文脈で包み込みます。女性の身体が「生命を育むゆりかご」として機能している間、そこにある痛みや露出には「大義名分」という強力な盾が用意されているのです。
では、「婦人科」はどうでしょうか。
こちらは、月経のトラブル、性感染症、子宮や卵巣の疾患など、生殖器の「メンテナンス」を扱う領域です。ここに「母性」という隠れ蓑はありません。婦人科の待合室にいるのは、「未来の母」としてではなく、剥き出しの「個としての女性」です。
途端に、社会の眼差しは気まずく、冷ややかなものへと変化します。
女性個人の性や身体の不調に対して、社会は過剰に「性的」な文脈を読み取ろうとしたり、あるいは「触れてはならないデリケートな問題(タブー)」として遠ざけようとしたりします。「婦人科に通っている」という事実だけで、いらぬ詮索や偏見の目に晒されることを恐れ、周囲に隠しながら通院している女性も少なくありません。
同じ女性の身体であり、同じ臓器を診るための医療空間であるにもかかわらず、「生命を産み出す」という社会貢献の文脈から外れた瞬間、女性の身体は急に「恥ずかしいもの」「隠すべきトラブル」へと格下げされてしまうのです。
この「産科の神聖」と「婦人科のタブー」という分断に気づいた時、私は日本の診察室に引かれた「カーテン」のもう一つの意味が見えてくるような気がしました。
あの分厚い布は、社会が「母ではない、一人の女性の身体」とどう向き合っていいか分からないという、社会全体の成熟度の低さを覆い隠すための目隠しでもあるのではないでしょうか。
女性の身体は、誰かのための器でもなければ、社会の道徳を背負わされるための道具でもありません。産科であれ婦人科であれ、一人の人間が自らの健康を守るために医療にアクセスする権利は、等しく尊厳をもって扱われるべきです。
「産婦人科」という一つに繋がった看板の下で、女性の身体が「神聖な母」と「隠すべき個」という二つの箱に引き裂かれている現状。私たちがその無意識の分断に気づき、女性の身体をただ「その人自身のもの」としてフラットに尊重できるようになること。それこそが、あの密室から不要なタブーや息苦しさを取り除くための、不可欠な視点なのだと思います。


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