【No.036】消費者と患者――「VIO脱毛」と「婦人科」を分つ決定的な境界線

社会とジェンダー

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本ブログは、医療空間における権力構造や、そこに生じる心理的な嫌悪感・ざわつき等を分析・考察するものです。特定の医療機関や従事者を非難・攻撃するつもりはありませんが、記事の性質上、医療現場の生々しい実態や直接的な表現が含まれる場合があります。ご自身の心身の状況に合わせて、無理のない範囲で閲覧をご判断ください。詳しくはサイトポリシーをご一読ください。

こんにちは、御簾納です。

前回、クスコ(腟鏡)の歴史を通じて、女性が婦人科で感じる恐怖は「モノとして扱われる(客体化される)歴史的構造」に起因していると述べました。今回は、その「客体化」という概念をさらに浮き彫りにするため、ネットの検索窓に潜むある切実な悩みと、もう一つの身近な空間を比較してみたいと思います。

GoogleやSNSの検索窓に「婦人科」と打ち込むと、頻繁にサジェストされるワードがあります。

「婦人科 アンダーヘア 処理」です。

「検診に行く前に、アンダーヘアは剃っていくべきか、そのままにしていくべきか」。ネット上には、この正解のない悩みに右往左往する女性たちの声が無数に溢れ返っています。

処理していけば「こんなところを見せるために気合を入れてきたのか」と医師に笑われるのではないか。かといって未処理で行けば「だらしない、不潔だ」と呆れられるのではないか。

できれば行きたくない医療空間であり、見せる相手も「医師」であるにもかかわらず、女性たちは内診台に上がる前段階から、自らの身体が「他者の目にどう映るか」という過剰な自意識の迷路に迷い込んでいます。

ここで、現代の多くの女性にとって一般的な身だしなみとなった「VIO脱毛(デリケートゾーンの脱毛)」と比較してみましょう。

空間の物理的な条件だけを切り取れば、美容クリニックの個室もまた、下半身の衣服を脱ぎ、見知らぬ他者の前で脚を大きく開き、最もプライベートな部位を晒すという極めて無防備な状況を強いられる場所です。

婦人科に行く前のアンダーヘアの悩みも、VIO脱毛も、「見られるからには綺麗(清潔)にしておきたい」という、他者の視線を内面化した自己検閲が根底にある点では同じベクトルを持っています。

しかし、その空間へ向かう女性たちの心理的な重圧には、天と地ほどの差があります。

婦人科に向かう時、女性たちは深い憂鬱と消極的な羞恥心を抱え込みます。一方で、VIO脱毛に向かう女性たちの多くは、それをパートナーや不特定多数の視線を意識した「自分磨き」や「快適さへの投資」として、積極的に、そして比較的カジュアルに受け入れています。時には友人同士やSNSで「どこのサロンが痛くないか」といった情報交換すらオープンに行われています。

根底にある「見られる部位を綺麗にしておきたい」という思いは同じであり、物理的にも同じように下半身を開示しているのに、なぜ「婦人科」は重苦しい悩みとなり、「VIO脱毛」はカジュアルな消費行動として成立するのでしょうか。

その決定的な違いは、「自らの身体の主導権(コントロール権)を誰が握っているか」にあります。

VIO脱毛の空間において、女性は「患者(弱者)」ではなく「消費者(お客様)」です。

彼女たちは自らお金を払い、「自分の身体をより美しく、より快適にする」という明確な目的を持って、主体的にその空間を訪れます。施術を行うスタッフ(多くは同性のエステティシャンや看護師)のまなざしは、「お客様へのサービス」というフラット、あるいはボトムアップのベクトルを持っています。そこでは、女性は自分の身体のオーナー(所有者)であり続けています。

対して、婦人科の空間ではどうでしょうか。

そこに足を踏み入れた瞬間、女性は「患者」という絶対的な弱者のポジションに組み込まれます。パステルカラーの電動内診台に座らされ、医師(多くは男性、あるいは医療という絶対権力)のトップダウンのまなざしに晒される時、身体の主導権は完全に相手へと移譲されます。彼女はもはや自分の身体のオーナーではなく、医療システムによって処理・管理される「不具合を起こした無機質なパーツ(客体)」へと還元されてしまうのです。

VIO脱毛の空間が証明しているのは、「女性は決して、ただ脚を開くこと自体に傷ついているわけではない」という事実です。

明確なリスペクトがあり、自分自身の主体性が担保されてさえいれば、女性はその状況を乗り越える強さを持っています。

彼女たちが婦人科の密室で本当に怯え、深く傷ついているのは、露出の羞恥ではなく「自らの身体の決定権を奪われ、他者の権力の下で無力化されること」そのものなのです。

資本主義の「美容」というパッケージが担保している最低限の尊厳(お客様としての扱い)すら、「医療」という大義名分はいとも簡単に剥ぎ取ってしまう。この対比を見つめると、あのパステルカラーの椅子がいかに個人の主体性を無効化する装置として機能しているかが、より一層生々しく浮かび上がってきます。

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