【No.001】はじめに――私が「パステルカラーの内診台」のタブーに踏み込む理由

空間と装置

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本ブログは、医療空間における権力構造や、そこに生じる心理的な嫌悪感・ざわつき等を分析・考察するものです。特定の医療機関や従事者を非難・攻撃するつもりはありませんが、記事の性質上、医療現場の生々しい実態や直接的な表現が含まれる場合があります。ご自身の心身の状況に合わせて、無理のない範囲で閲覧をご判断ください。詳しくはサイトポリシーをご一読ください。

はじめまして。当ブログの筆者、御簾納(みすの)と申します。

都内でフリーランスの編集者やリサーチャーとして活動している、40代の男です。

私は学生時代に空間社会学や民俗学を専攻し、以来「日本社会に潜む空間のタブー」や「見えない境界線」について、仕事の合間を縫って個人的な研究を続けてきました。これまで宗教的な禁忌から地理的な立ち入り禁止区域まで、様々な「禁足地」を調べてきましたが、手元のノートに書き溜めるだけだった考察を、あえてこのブログという形で公開しようと決意したのには、ある強烈な体験がきっかけとなっています。

私たちが生きる日常の中で、最も身近にありながら、最も強固に守られている「男子禁制の密室」について、これから皆様と共に考えていきたいと思います。

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事の発端は、ある休日のことでした。少し時間ができた私は、気晴らしに愛車のバイクを走らせ、群馬県の伊香保温泉へとフラッと足を伸ばしました。

温泉街の近郊に、「命と性ミュージアム」という、半分真面目で半分は昭和の秘宝館のような施設があります。私はそこで、ある奇妙な展示物と遭遇しました。

それは、一般の来場者が靴を脱いで自由に乗って操作できる「電動内診台」でした。

無機質なパステルグリーンのシートに覆われたその機械に、私は軽い好奇心から腰を下ろしてみました。

ウィーンというモーター音とともにスイッチが入った瞬間、私の身体に起きたことは「診察の準備」などという生易しいものではありませんでした。

想像をはるかに超える高さまで身体が宙へと持ち上げられます。次に、両脚が容赦なく左右に開かれ、太ももの内側を天井へ向かせるような特有の軌道を描きながら、股関節が限界まで外側に捻り上げられました。

キリキリとした物理的な痛みが走ります。自らの意思で脚を閉じることは物理的に不可能であり、身をよじることすら許されません。そこにあったのは、乗った人間を効率的に「観察・処置の対象」へと変形させるための、徹底した合理性でした。私は天井を見上げながら、自分の身体の主導権が完全に機械に奪い取られたという、根源的な恐怖と無力感を感じたのです。

以前、ある男性YouTuberがこのミュージアムを訪れ、内診台に乗って不謹慎な発言をする動画をSNSに投稿して大炎上した一件がありました。事態は単なるネット上の批判にとどまらず、製造元のメーカーが公式に抗議声明を発表する騒動にまで発展しました。

彼があのような軽薄な動画を撮れたのは、男性である彼がこの台に乗るという行為が、社会においては「消費可能なギャグ(滑稽な笑い)」として成立するだろうという、非当事者ゆえの錯覚があったからです。白状すれば、私自身も股関節の痛みに顔をしかめながら、どこかで部外者ゆえの気楽さを持っていたことは否めません。

しかし、もしあれが女性であったならどうでしょうか。決して「笑い」では済まされません。同じ機械に乗り、同じ姿勢を強いられているにもかかわらず、男性の身体は喜劇のネタにするという発想が生まれるのに対し、女性の身体は厳重なタブーになります。

女性たちは、病への不安を抱えながら、あの無力化される機械に乗り、さらに「見られる」という重圧と闘ってきたのです。

この社会において、産婦人科の診察室は、特異な密室です。

なぜ日本の内診台には、欧米にはない「カーテン」が必ず引かれているのか。なぜ女性たちはそこで強いられる不快感に対して沈黙せざるを得ないのか。そして、社会はなぜその微かな悲鳴を「自意識過剰」と切り捨てるのでしょうか。

私は男性であり、あの空間の真の当事者になることは一生ありません。

だからこそ、この「見えない禁足地」の構造を外部から冷静に分析し、言葉にすることに意味があると考えています。医療現場における「まなざしの非対称性」を紐解き、患者と医療者がより人間的に向き合える環境を模索するために。これから不定期に続く私の考察が、日本の隠す文化を見つめ直す一助になれば幸いです。

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