【No.015】晒すことの勇気と社会の限界(後編)――「まなざし」の成熟を阻むもの

社会とジェンダー

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こんにちは、御簾納です。

前回に続き、熊田曜子氏の婦人科検診動画について考えます。

彼女が自らの身体を張って「検診の重要性」を啓蒙したにもかかわらず、なぜ一部の層はそれを下世話に消費し、あるいは「わざわざ見せるなんてはしたない」とバッシングに走ったのでしょうか。

そこには、日本社会が女性の身体に対して抱えている、極めて未成熟な「まなざしの歪み」が存在します。

この社会において、女性の身体、特に生殖に関わる部分は、歴史的に「隠蔽されるべきタブー」か、あるいは「男性によって消費される対象(ポルノ)」のどちらかに極端に分類されてきました。

熊田氏が動画で提示したのは、そのどちらでもない、「自分自身の健康を管理するための、中立的な身体」でした。しかし、オーディエンス側(特に男性や、保守的な価値観を持つ人々)の多くは、その「中立的な女性の身体」を見るための文脈(コード)を持ち合わせていなかったのです。

彼らは、内診台に乗る女性の映像を見た瞬間、パニックに陥りました。

「これは隠すべきタブー(恥)なのか? それとも性的な消費対象(エロ)なのか?」

その二項対立の回路しか持たない彼らは、彼女の真摯な啓蒙活動を、無理やり自分たちの卑俗なコードに引きずり下ろすことでしか処理できなかったのです。それが、「再生数稼ぎの露出だ」というバッシングや、下世話な揶揄へと繋がりました。

この事象は、日本の女性たちがなぜ婦人科という空間で「カーテン」に依存せざるを得ないのか、その根源的な理由を逆説的に証明しています。

社会のまなざしがこれほどまでに未成熟で、女性の身体をただ「一人の人間の身体」としてフラットに尊重できない状態だからこそ、女性たちは自分自身を強固なカーテンで隠し、防衛しなければならないのです。

熊田氏の行動は、決して「自意識過剰」や「炎上商法」などではありません。彼女は身をもって、この社会に蔓延する「女性の身体を消費・揶揄せずにはいられない、冷酷なまなざし」の存在を可視化してくれました。

私たちは、あの動画に寄せられた心無いコメント群を、単なるネットのノイズとして片付けてはなりません。それは、私たち一人一人の内側にある「まなざしの歪み」の集合体です。

彼女の勇気ある啓蒙活動を本当に無駄にしないためには、まず社会の側が、そして男性の側が、女性の身体に向ける「まなざしの文脈」を成熟させる必要があると、私は強く感じています。

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