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本ブログは、医療空間における権力構造や、そこに生じる心理的な嫌悪感・ざわつき等を分析・考察するものです。特定の医療機関や従事者を非難・攻撃するつもりはありませんが、記事の性質上、医療現場の生々しい実態や直接的な表現が含まれる場合があります。ご自身の心身の状況に合わせて、無理のない範囲で閲覧をご判断ください。詳しくはサイトポリシーをご一読ください。
こんにちは、御簾納です。
ここ数回にわたり、メディアが女性の身体と診察室をどう扱ってきたかについて考察してきました。
現代の日本のテレビドラマは臭い物に蓋をするように「綺麗に隠蔽」し、一昔前の映像作品は「権力とエロスの装置として搾取」し、最近のネット上の無修正動画は「グロテスクなポルノとして消費」される。
では、メディアはあの密室をどのように描くのが正解なのでしょうか。隠蔽でもなく、無遠慮な露出でもない。その「まなざしの倫理」のひとつの到達点とも言える映画を、今回はご紹介したいと思います。
2020年に公開されたエリザ・ヒットマン監督のアメリカ映画『17歳の瞳に映る世界』(原題:Never Rarely Sometimes Always)です。
物語は、予期せぬ妊娠をした17歳の少女・オータムが、中絶手術を受けるためにペンシルベニア州からニューヨークのクリニックへ向かうという、極めてドキュメンタリータッチの静かなロードムービーです。
この映画の中で、主人公がクリニックで事前カウンセリングを受ける有名なシーンがあります。女性ソーシャルワーカーが、彼女の性体験やパートナーからの暴力の有無について、淡々と質問を重ねていきます。回答の選択肢はタイトルにもなっている「Never(全くない)、Rarely(めったにない)、Sometimes(時々)、Always(いつも)」の4つです。
この数分間に及ぶ長回しのシーンで、カメラは決して彼女の身体のプライベートな部分を映し出したり、過剰な演出を加えたりはしません。ただひたすらに、質問に答えるオータムの「顔の微細な変化」を真正面から捉え続けます。
彼女は言葉を詰まらせ、視線を泳がせ、やがて静かに涙を流します。
観客は、彼女の肉体が直接画面に晒されていないにもかかわらず、彼女がこれまでどのような身体的・精神的な痛みを強いられてきたのか、その「生々しい身体の現実」を、痛いほどの解像度で理解させられるのです。
この映画におけるクリニックは、男性の権力が支配する搾取の場(かつての日本の映像メディア)でもなければ、現実を美しく漂白したファンタジー(現代の日本のテレビ)でもありません。そして、視聴者の下世話な好奇心を満たすための見世物(ネットの無修正動画)でもありませんでした。
そこにあるのは、患者を「一人の主体的な人間」として尊重し、対話を通してその痛みに寄り添おうとする、徹底して成熟した「まなざし」です。
監督は、女性の身体の現実を伝えるために、必ずしも肉体を直接露出する必要はないことを証明しました。必要なのは、対象をモノとして消費するのではなく、一人の人間として真っ直ぐに向き合う「倫理的なカメラの距離感」だったのです。
私は、女性の身体を覆い隠す「分厚いカーテン」の存在を批判してきました。しかし、そのカーテンを取り払った後に私たち社会が獲得すべきなのは、無遠慮に患部を覗き込むような下世話な視線ではありません。
『17歳の瞳に映る世界』が提示したような、相手の顔を真っ直ぐに見つめ、対話を通してその尊厳を守り抜くという、成熟したまなざしです。
メディアがこのような「新しい視点(コード)」を提示し続けることができれば、現実の社会も少しずつ、あの密室の呪縛から解き放たれていくのではないかと、私は希望を持っています。


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