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本ブログは、医療空間における権力構造や、そこに生じる心理的な嫌悪感・ざわつき等を分析・考察するものです。特定の医療機関や従事者を非難・攻撃するつもりはありませんが、記事の性質上、医療現場の生々しい実態や直接的な表現が含まれる場合があります。ご自身の心身の状況に合わせて、無理のない範囲で閲覧をご判断ください。詳しくはサイトポリシーをご一読ください。
こんにちは、御簾納です。
このブログでは日本の日常に潜む空間のタブーについて綴っていますが、息抜きも兼ねて、今日は私の趣味である映画の話を少しさせてください。
私は昔から、人間の深層心理をえぐるようなサイコスリラーや医療サスペンス映画を好んで観ています。とくに80年代後半から90年代の作品には、現代のコンプライアンスでは作れないような鋭い人間観察が潜んでいることが多く、今見返してもハッとさせられます。
今回、婦人科という空間について考える中で、どうしても頭から離れない映画がありました。デヴィッド・クローネンバーグ監督の『戦慄の絆(原題:Dead Ringers)』(1988年)です。
物語の主人公は、トロントで婦人科のクリニックを共同経営する、エリオットとビヴァリーという一卵性双生児の天才医師です(※1970年代に実際に起きた「マーカス兄弟怪死事件」をモデルにしています)。彼らは名声も富も得ていますが、一人の女優(患者)との出会いをきっかけに、その精神のバランスを静かに、しかし決定的に崩壊させていきます。
この映画が非常に優れているのは、彼ら双子の医師が、女性の身体をどのように「見つめているか」という描写です。
彼らにとって、女性の身体は「生命を育む神聖なゆりかご」などではありません。解明すべき、そして統治すべき 「複雑な機構 (マシーン)」として認識されています。
劇中の診察室には、日本で見慣れた「カーテン」は存在せず、医師は内診台に乗る患者と真っ直ぐに目を合わせ、対話しながら診察を行います。しかし、だからといってそこが安全な空間とは限りません。
その冷徹なパターナリズム(父権主義)を象徴するのが、中年女性(ブックマン夫人)の内診シーンです。精神を病んでいった弟のビヴァリーは、学生時代に考案した『マントル開口器』という金属器具を実際の内診で無断使用します。激しい痛みに苦痛を訴える患者に対し、彼は寄り添うどころか冷酷に一喝し、彼女を強制的に沈黙させてしまうのです。
顔を突き合わせて対話しているのに、いや、顔を突き合わせているからこそ、医師という絶対的な権力は、患者の「痛い」という正当な悲鳴すらも有無を言わさずねじ伏せてしまう。
そして恐ろしいことに、この「患者が痛みを訴えた(自分の意のままにならなかった)」という事実が、彼の狂気を加速させます。彼は既存の医療器具では飽き足らず、まるで中世の拷問器具のような、おぞましい形をしたオリジナルの「突然変異の女性のための器具」を鍛冶屋に作らせ、実際の患者に使用しようとします。
この背筋の凍るような展開は、ホラーとしての見せ場であると同時に、対話があるはずの欧米のスタイルであっても医療における「まなざしの暴走」が起こり得ることを暗喩しています。
医師が、目の前にいる患者を「心を持った一人の人間」として見ることをやめ、ただの「臓器」や「研究対象」としてのみ見つめるようになった時。医療器具は、人を癒すための道具から、他者の身体をこじ開け、対象を完全にコントロールするための道具へと容易にすり替わってしまうのです。
現実の日本の診察室において、顔を隠す「カーテン」の向こう側で起きている構造的な分断は、まさにこの映画の双子たちが陥った狂気と地続きなのではないかと、私は危惧しています。
患者の顔が見えないシステムは、医師から「人間への共感」を奪い、対象を無機質なモノとして処理する冷徹さを育んでしまいかねません。
医療の現場が、患者の尊厳を置き去りにした「機能の確認作業」になっていないか。私たち社会は、映画の中の狂気をただのフィクションとして笑うことはできないはずです。
より温かな、患者と医師が「人間対人間」として向き合える医療のあり方を模索するために。これからも、隠された空間の構造について考えていきたいと思います。


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