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本ブログは、医療空間における権力構造や、そこに生じる心理的な嫌悪感・ざわつき等を分析・考察するものです。特定の医療機関や従事者を非難・攻撃するつもりはありませんが、記事の性質上、医療現場の生々しい実態や直接的な表現が含まれる場合があります。ご自身の心身の状況に合わせて、無理のない範囲で閲覧をご判断ください。詳しくはサイトポリシーをご一読ください。
こんにちは、御簾納です。
前回は映画『ロマンスX』を引き合いに、隠蔽や美化を排した内診室の現実について考察しました。今回はひるがえって、日本のメディア(特にテレビのドキュメンタリー)がこの空間とどう向き合ってきたかについて、少し時代を遡って振り返ってみたいと思います。
現在、日本のテレビで医療ドキュメンタリーが放送される際、題材に選ばれるのは決まって「産科(生命の誕生)」であり、ごまかしの効かない「婦人科」がリアルに描かれることは皆無です。しかし、まだSNSが存在しなかった平成前期など、今よりも少しコンプライアンスが緩やかだった時代には、数は少ないものの、ゴールデンタイムに婦人科の特集ドキュメンタリーが組まれることがありました。
当時の女性たちは、今よりもさらに婦人科に通うことを秘め事として隠そうとしていた時代です。決して安易に放送できたわけではありません。それでも当時の制作陣や放送局には、「女性特有の病気についても、他の病気と同様に社会へ啓蒙すべきだ」という、強烈な使命感と勇気がありました。
そして、ドキュメンタリーである以上、そこに過剰な演出やごまかしはありません。
放送コードに抵触しないよう、性器そのものを直接映すことは避けていましたが、カメラは内診台で脚を広げている女性を「医師の真後ろ」から撮影していました。医師の背中がちょうど患部の目隠しになる構図を使い、あの「パステルカラーの椅子に拘束され、下半身を開かされている」という物理的な状況そのものは、お茶の間に克明に映し出されていたのです。
当然、激しい賛否が巻き起こりました。
放送から数日後の新聞の投書欄には、「病気の実態がよく分かり、非常にためになった」と番組の真摯な姿勢を称賛する女性視聴者からの声が載る一方で、「家族団欒の時間に、婦人科の診察室を映すなんて非常識極まりない」といった激しい批判コメントも並んでいました。SNSのない時代ですから、番組への批判はテレビ局へ直接向かいます。使命感を持ってありのままを放送した日の夜、局の電話は抗議で鳴り止まなかったかもしれません。それでも彼らは、リスクを背負って「見せる」ことを選んだのです。
では、今はどうでしょうか。
もし昔のように「医師の背中越しに内診台の現実」を映してしまえば、間違いなくSNSで大炎上し、番組は打ち切りに追い込まれるでしょう。その結果、現在のメディアが選んだのは「婦人科そのものをドキュメンタリーの題材として扱わない」という、極端な事勿れ主義の結論でした。
確かに現代の女性たちは、テレビ番組がなくても自ら情報を得られますし、何より実体験としてあの空間の過酷さを知っています。
しかし、このメディアの逃避によって、とてつもなく重大な問題が一つ残されました。それは、「男性が、女性特有の病気の現実や、あの内診の壮絶さを『知る機会』が、社会から完全に失われてしまった」ということです。
メディアが「臭い物に蓋」をし続けた結果、あの密室はますます不可視化されました。男性があのパステルカラーの椅子の上で何が行われ、女性がいかに無力な状態に置かれているかを想像する機会を奪われたこの「情報の非対称性」こそが、「自意識過剰だ」と冷笑する男性社会の無理解やバッシングを生み出す土壌となっているのです。
私がこのブログで、パステルカラーの診察台やカーテンの向こう側の光景について、あえて言葉を濁さずに直接的で生々しい表現を用いて描写しているのは、この「失われた啓蒙の機会」を少しでも取り戻したいという思いからです。
私の直截な言葉選びに戸惑いを覚える方もいらっしゃるかもしれませんが、綺麗なオブラートに包んでしまえば、この密室の権力構造は決して伝わりません。かつてのテレビマンたちが持っていた使命感に倣い、私はこれからもこの隠された空間について、妥協なく綴り続けていきたいと考えています。


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