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本ブログは、医療空間における権力構造や、そこに生じる心理的な嫌悪感・ざわつき等を分析・考察するものです。特定の医療機関や従事者を非難・攻撃するつもりはありませんが、記事の性質上、医療現場の生々しい実態や直接的な表現が含まれる場合があります。ご自身の心身の状況に合わせて、無理のない範囲で閲覧をご判断ください。詳しくはサイトポリシーをご一読ください。
こんにちは、御簾納です。
前回、西洋映画における「まなざしの倫理」について触れましたが、映像史にはもう一つ、全く別のアプローチで女性の身体の真実に迫ろうとした極めて重要な作品があります。カトリーヌ・ブレイヤ監督の1999年の映画『ロマンスX』です。
この作品は公開当時、過激な性描写やラストの無修正の出産シーンばかりがスキャンダラスに消費されましたが、私が空間社会学の視点からどうしても言及しておきたいのは、劇中の中盤に差し込まれる「医学生による内診シーン」の描写です。
主人公のマリーは、精神的な愛と肉体的な実感の乖離に苦しみ、自らの身体を極限まで他者に差し出すことで、逆説的に「自分自身の存在(実存)」を確かめようと彷徨う女性です。
そんな彼女が受ける産婦人科の診察シーン。カメラは、生命の誕生というオブラートで美化できる「産科」の温かさなど微塵も描きません。そこにあるのは、無機質な診察台の上にただの「物質」として開かれた彼女の身体と、それを冷徹に観察する複数の医学生たちのまなざしです。
映画は、このごまかしの効かない物理的な現実を、一切の虚飾なくスクリーンに映し出します。
マリーの表情に浮かぶのは、恥じらいというよりも、自らの身体が極限まで「客体化(モノ扱い)」されることへの虚無感と、決定的な孤立です。彼女の肉体は、医学生たちにとってただの「学習用のマテリアル」に過ぎません。そこには人間同士の対話も、情緒的な繋がりも介在しない。
社会はしばしば、こうした裸の描写を「エロティックだ」と誤読して消費しようとしますが、それは大きな間違いです。ブレイヤ監督が描きたかったのは、女性の身体が医療・教育という巨大なシステムの中に放り込まれた時、どれほど冷酷に「ただの肉の塊」へと還元されてしまうのかという、管理社会への告発です。だからこそ、このシーンの医学生たちは極めて事務的であり、そこには性的なエロティシズムなど微塵も存在しません。
私はこの映画を、医療空間の無機質さとプライバシーの欠如を見事に暴き出した、優れた芸術作品だと高く評価しています。私たちは、この『ロマンスX』の冷徹なカメラワークのように、美化も隠蔽もせずに現実のシステムを直視する勇気を持っているでしょうか。


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